日本航空123便墜落事故
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アメリカ軍の捜索協力


墜落位置の特定

墜落機の飛行状況は、アメリカ軍在日米軍)も把握していた。テレビで放送されたACCの録音テープによれば、米空軍横田基地の管制官は迷走飛行中の123便に対して繰り返し呼びかけていた。在日米空軍のC-130

墜落場所も早い段階で把握していたとされており、墜落から約1時間後に近くを飛行していたアメリカ空軍C-130輸送機が墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。


現場に急行

その後、米海軍厚木基地から暗視カメラを搭載している海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていた。しかし救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。

日本の事故に対する米軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要であったため、米軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。国内の事故に対する米軍の救出活動への参加と政府の迅速な判断に課題を残した。

なお、警察庁上層部が米軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違う米軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも諸説ある。


関係機関の連携体制

この在日米軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明には「アメリカ軍の現場特定及び救出活動の申し出はすべて誤報であった」として否定された。

佐藤守元航空自衛隊空将は後日、「在日アメリカ軍報道部長から確認したこと」として、「アメリカ軍から援助の申し出があったのは事実であるが、当時の在日アメリカ軍は特殊な機材を搭載したヘリコプターを装備しておらず、具体的な支援の内容は救出された怪我人の搬送等であり、さらにそれを日本側が拒否した事実もない」とし、「オーストラリアの新聞記事に無批判に追随した報道各社がデマを広げた」と批判した。[19]。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を生む一因ともなった。

なお、事故より10年後に、「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であった」と改めて発表されている。この内容は後年に新潮社週刊誌に詳細記事として掲載されたり、上智大学文学部で英語の入試問題として採用されたりしている。

また、当時の東京消防庁航空隊には強力サーチライトを搭載したアエロスパシアル製ヘリコプターが2機配備されており、事故当夜は関係省庁からの要請に備えいつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁に出動要請は来なかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、この東京消防庁所有の高性能ヘリコプターの存在を知らなかった事が明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の状態だった事もあり、緊急時における縦割り行政の救難体制の問題点が浮き彫りになった。[20]


遺体収容・検屍・身元確認作業

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墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり遺体の腐敗の進行も早かった。遺体は、機体から投げ出され樹木に突き刺さったもの、機体の残骸に挟まれたり切断されたもの、一部が落下の衝撃で地中深くに埋もれたもの、圧力によって2名の体が一つにめり込むように合体したようなものなどが発見された。遺体の部位によっては、挫砕され完全に識別困難となった部位や墜落の摩擦で完全に消失した部位もあった。また当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったために、身元の特定は困難を極めた。例として、機長の遺体は顎の骨(前歯5本)のみであった。これは墜落時の体にかかる衝撃の凄まじさを物語っている(推算によるとこの墜落事故で一人にかかる衝撃は980tと言われ、これは広島での原子爆弾炸裂時に爆心地にいた犠牲者や広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が受けた衝撃の28倍に相当する)。当便の乗客であった歌手の坂本九は、胴体しか残っておらず身に付けていた笠間稲荷神社のペンダントで判明した。

当初遺体は墜落現場から山道を自衛隊員・地元消防団・警察官等で人海戦術を使い、上野村検屍、身元確認作業を考えていたが、「遺体の損傷が酷く、山道で降ろす場合上野村まで時間も掛かり、気候・気温と時間経過により遺体の腐敗進行が早まっている為、人海戦術では無理」と判断され、「上野村ではあまりにも規模が大きく対処しきれない」と結論付けられた[21]。墜落現場に臨時のヘリコプター発着場が自衛隊によって突貫作業で造られ、8月14日午前から遺体搬出作業が始まった、直線距離で墜落現場から約45キロ離れた群馬県藤岡市へ自衛隊・警察のヘリコプターで運ばれた[22]

群馬県藤岡市にある「藤岡市民体育館」に遺体検視兼安置所が設置された[23]。地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部の教授陣、法医学者、法歯学者、歯科医師看護師日赤などが全国から駆け付け[24]、猛暑・悪臭などの劣悪な環境の中で判別作業が進められた。事故現場から搬出され、検屍された遺体総数は2065体[25]に上り、520人の犠牲者のうち、ほぼ五体揃った遺体として発見されたのは177体(その殆どが機体後部からのものだった)。他は身体の一部[26]や遺留品のみで識別され、身元が判別できないままの、膨大な量の遺体片が約400体強残された。また、アメリカ人1名を含む2名の遺体は遂に確認できなかった。最終的な身元確認作業の終了までには、約4ヶ月の時間と膨大な人員を要した。また死体回収にかかわった大半の人が普段の生活において、肉類の食事を取る事が出来なかったという[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki