1980年代に入り、好調な日本経済の状況により円高が進んだことや、国際線における競争が激化したことに伴い、航空運賃が下がったことなどから日本人の海外渡航が飛躍的に増加した。これに対応してボーイング747の最新型である-300(SUD)と同-300SRの追加発注を相次いで行い、ボーイング747の世界最大のカスタマーとなった。また、1980年9月には日本の航空会社としては始めてのビジネスクラス「エグゼクティブクラス」の導入を行った他、1983年7月にはボーイング747-200LR「エグゼクティブ・エクスプレス」により、これまではパンアメリカン航空のボーイング747SPしか運航していなかった東京-ニューヨーク間の無着陸直行便の運航を開始。1985年には同路線に世界初のファーストクラスとビジネスクラスのみの機材を就航させる他、1982年には、航空会社が発行するクレジットカードとしては日本初の「JALカード」をテスト発行し、翌年4月からは全国での発行を行うなど、収益率の高いビジネス旅客の取り込みを進めた。ボーイング767型機
これらの積極的な経営拡充を受けて、1984年にIATAが発表した1983年度の世界の民間航空会社の輸送実績統計では、旅客と貨物を含めた国際線定期輸送実績で、長年ライバル関係にあったパンアメリカン航空やブリティッシュ・エアウェイズ、エールフランス航空などの各国のフラッグ・キャリアを上回り世界第1位になった[11]。しかし一方で、1982年には日本航空羽田沖墜落事故が発生。さらに1985年8月には、単独機の事故としては世界最大の犠牲者数を出した日本航空123便墜落事故が発生し、これによる利用客の減少と補償経費の増加などによって一時的に業績が悪化した。
なお、この年に「45/47体制」が廃止されて国内ローカル線への就航も可能になったことにより、これまで全日本空輸や東亜国内航空の独壇場で、日本航空には幹線と一部の準幹線の運行しか許されていなかった国内線路線網も、高収益が見込める羽田空港発の路線を中心に飛躍的に拡大され、同年8月には国内線と近距離国際線用の新型機材であるボーイング767などの新規導入や、当時世界最大の客席数を誇ったボーイング747-300SRの追加導入を行いこれに対応することになった。しかし同時に、これまで国内線と国際線チャーター便の運行だけしかできなかった全日本空輸や東亜国内航空にも国際線参入への道が開かれたことで、さらに日本発の国際線における価格競争が進むことになる。ボーイング747-400型機
また、日本経済の更なる国際化やプラザ合意後の円高の進行に伴い海外渡航者数が増加することに対応するとして、1980年代中盤以降に、系列会社の日航開発(現JALホテルズ)により、ニューヨーク(エセックスハウス)やメキシコシティ(ホテル・ニッコー・メキシコ)、バンコクやビバリーヒルズなど世界各地に急速に自社ホテル網が築かれていった他、大阪や福岡、沖縄や北海道など国内にもホテル網を拡大していく。
なお、1951年の設立から長らく半官半民という経営体系であったが、「45/47体制」廃止後の1985年9月には、当時の中曽根康弘首相が進める国営企業や特殊法人の民営化推進政策を受けて完全民営化の方針を打ち出し、その後準備期間をへて1987年11月に完全民営化された。民営化後には上記のホテル事業などに加えて教育事業やIT事業、レストラン事業や出版事業の子会社を次々設立するなど、事業の多角化が進んだ。またこの頃、ボーイング747の最新型である747-400型機の大量発注を行った他、ボーイング767型機の納入が進んだことなどを受けて、同年12月を持って長年同社の主力機として運行されていたダグラスDC-8型機(最後まで残ったのはDC-8-61型機)が全機退役した。
1990年代「リゾッチャカラー」のJALウェイズのボーイング747-300型機マクドネル・ダグラスMD-11型機
1980年代後半から始まったバブル景気がピークに達した1990年には、先に発注した最新鋭機のボーイング747-400型機を導入すると同時に、新塗装を導入した。しかしその後、1991年1月の湾岸戦争勃発に伴う海外渡航者の減少と燃料の高騰、同年のバブル景気の崩壊。1980年代以降の日航開発による海外のホテルなどへの無理な投資や、燃料の先物取引の失敗などの経営判断のミス。過激な労働組合活動に後押しされた人件費の高騰などの様々な悪条件が重なり、1992年度決算では538億円という巨額の経常損失を計上し経営不振に陥った。
しかし、国内外のホテルをはじめとする不動産などの余剰資産の売却や共同運航便やコードシェア便の増加、契約制客室乗務員制度の導入などによる人件費の削減、半官半民時代に国策で運行させられていた中東路線や南回りヨーロッパ線などの不採算路線の廃止やJALウェイズ、JALエクスプレスなどの低コスト運行を行う子会社を設立し収益性の低い路線の運航を移管するなどの果敢なリストラを行った上、1994年にはホノルルや沖縄、オーストラリアなどのリゾート路線向けにリゾッチャなどのキャンペーンを導入し個人旅行客の取り込みに成功した他、円高による海外渡航者の急激な回復などの追い風に後押しされて、1990年代中半には経営状況が急激に回復する。
業績が順調に推移していく反面、1998年8月には、暴力団系総会屋関連企業に「観葉植物のリース料」名目で数千万円の利益供与を行っていたとして元役員らが起訴されるなど裏社会との関係が明らかになり、急遽企業行動点検委員会が設置された。しかし同年にも、自社の株主優待券を金券ショップで換金し、総会屋対策の裏金を捻出していたことが東京国税局の税務調査で発覚するなど構造的な腐敗体質が明らかになり、以降は企業コンプライアンスの改善に注力してゆくこととなる。