日本統治時代_(台湾)
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金融大阪中立銀行

1895年5月、日本軍が台湾に進駐すると、9月には大阪中立銀行が基隆に「大阪中立銀行基隆出張所」を設立した。1896年6月、台湾総督樺山資紀は大阪中立銀行在台分行の設立を認可し、台湾における最初の銀行の設立となった。

1897年3月、帝国議会で台湾銀行法が通過、11月に台湾銀行創立委員会が組織され台湾銀行の開設準備が着手された。1899年3月、台湾銀行法が改正され、日本政府は100万元を限度額に台湾銀行株式の取得を認可した。同年6月に「株式会社台湾銀行」が設立され、9月26日より営業開始となった。日本統治期間中、台湾銀行は台湾総督府の委託を受け台湾地区での貨幣台湾銀行券を発行していた。台湾銀行の本部は台北に置かれたが、頭取は東京に駐在し、株式総会も東京で開催されていた。この台湾銀行を通して日本資本が大量に台湾に投下され、台湾の資本主義が発達したと共に、更に台湾より中国や東南アジアへの資金が投資されていった。

台湾銀行以外に、台湾総督府は台湾金融の安定化を図るために彰化銀行嘉義銀行台湾商工銀行新高銀行華南銀行勧業銀行などを設立し、また特別法を制定し、信用組合無尽、金融講、信託会社なども設立され台湾経済の発展に寄与させていた。


専売制度

日本統治初期、台湾の財政は日本本国からの補助に依拠しており、当時の日本政府において大きな財政的負担となっていた。第4代台湾総督の児玉源太郎は、民政長官の後藤新平と共に『財政20年計画』を策定、20年以内に補助金を減額し台湾の財政独立を図った。1904年日露戦争が勃発すると、その戦費捻出のために日本の国庫が枯渇、台湾は計画を前倒して財政独立を実現する必要性に迫られた。

具体的な施策として総督府は地籍整理、公債発行、統一貨幣と度量衡の制定以外に、多くの産業インフラの整備を行うと共に、専売制度と地方税制の改革による財政の建て直しを図った。専売制度の対象となったのは阿片タバコ(参照台湾総督府専売局松山煙草工場)、樟脳アルコール及び度量衡であり、専売政策は総督府の歳入の増大以外に、これらの産業の過当競争を防ぎ、また対象品目の輸入規制を行うことで台湾内部での自給自足を実現した。


教育

台湾の教育史も参照六氏先生遭難之碑

台湾で抗日武力闘争が発生していた時期、総督府は武力による鎮圧以外にその統治体制を確立し、教育の普及による撫民政策をあわせて実施した。台湾人を学校教育を通じて日本に同化させようとした。初等中等教育機関は当初、台湾人と日本人を対象としたものが別個に存在し、試験制度でも日本人が有利な制度であったが、統治が進むにつれ次第にその差異は縮小していった。台湾に教育制度を普及させた日本の政策は現在の台湾の教育水準の高さに一定の影響を与えている。


初等中等教育

1895年7月14日、台湾総督府は初代学務部長に伊沢修二を任命し台湾における教育政策を担当させた。伊沢は日本内地でも実現していなかった義務教育の採用を上申し、総督府もその提言を受け入れて同年、台北市芝山岩に最初の近代教育を行う小学校(現在の台北市士林国小)を設置、義務教育の実験校とした。その後六氏先生事件なども発生したが、総督府は教育政策を推進し、翌年台湾全域に国語伝習所を設置するなどの義務教育施設の充実に努めた。1898年、国語伝習所は公学校に昇格している。


建成小学校跡

当初、台湾の初等中等教育制度は台湾人と日本人を対象とするものが別個に存在していた。内地人(日本人)の初等中等教育は、内地に適用されるのと同じ教育法令に基づいて設置される小学校および中学校、本島人(台湾人)のそれは、台湾教育令に基づいて設置される公学校および高等普通学校によってそれぞれ担われていた。

しかし1929年になると台湾教育令を改正し、中等教育については高等普通学校が廃止、中学校に一本化され、台湾人と日本人の共学制が採用された。同時に初等教育においても「内地人」、「本島人」という民族による区分が廃止され「日本語を常用する児童」が小学校に、「日本語を常用しない児童」が公学校に入学することとなった。

1941年3月、台湾教育令は再度改正が行われ、小學校、蕃人公学校と公学校を統合し国民学校(一部は蕃童教育所として統一された。これにより台湾の教育制度は完全に統一され、特殊な原住民を対象とする教育以外、中央或いは地方財政で学校が運営され8歳以上14歳未満の学童に対し6年制の義務教育が行われるようになった。

台湾人の就学率は当初緩慢な増加であったが、義務教育制度が施行されると急速に上昇、1944年の台湾では国民学校が944校設置され、就業児童数は876,000人(女子を含む)、台湾人児童の就学率は71.17%、日本人児童では90%を越える世界でも高い就学率を実現した。

日本統治時代の就学率一覧 (『台湾省51年来統計提要』1,241ページ)年代1904年1909年1914年1920年1925年1930年1935年1940年1944年
台湾人学童3.8%5.5%9.1%25.1%27.2%33.1%41.5%57.6%71.3%
日本人学童67.7%90.9%94.1%98.0%98.3%98.8%99.3%99.6%99.6%


高等教育台北帝国大学(現在の台湾大学)校門

日本統治期間中、台湾における高等教育は当初は日本人を対象とし、台湾人が高等教育を受ける機会は限定されたものであった。 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。


職業教育

職業教育では総督府は当初農試験講習生制度を設立し台湾の産業発展に寄与する人材育成に着手した。その後糖業講習所た学務部付属工業講習所など就学期間を半年から2年とする教育機関を設立した。その後台湾各地に中学校が設立されるようになると、総督府は技術人材の育成を目的とした職業教育の充実を目標とし、1922年台湾教育令改正の差異に、職業学校として農業、工業、商業学校を定めた。これらの実業学校は当初2年制であったが、太平洋戦争勃発後は4年に修業期限が延長され、台湾における技術人員の育成が行われた。


交通

総督府は台湾の近代化のために都市整備と交通改善を実施している。その中で鉄道建設が最重要政策とされ、また一定規模を有する道路建設も重要項目として整備された。交通の改善により台湾の人口は1895年の260万人から1945年の650万人に増加し、台湾の南北を連絡する交通網は台湾社会の大動脈として現在も利用されている。1928年,鉄道部が『台湾日日新報』に掲載した観光地図。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki