1895年に日本による台湾統治が開始されると当初阿片吸引は禁止された。しかし阿片吸引人口が多く、急進的な禁止政策は社会不安を招くとし、即時禁止政策を漸禁政策へと転換させた。1897年1月21日、総督府により『台湾阿片令』が公布されると、総督府は阿片を専売対象品目とし民間の販売を禁止し、また習慣的な吸引者には一代限定の吸引免許を発行し、新規免許の発行を行わないことで時間をかけた阿片撲滅を図った。1900年の調査では阿片吸引者は169,064名(総人口の6.3%)であったものが、1921年には45,832人(1.3%)とその政策の効果が現れている。また財政的にも阿片専売による多額の歳入があり、台湾経済の自立にも寄与する政策であった。
日本が台湾に進駐した初期において、日本軍は伝染病などにより多くの戦病死者を出した経験から総督府が台湾の公共衛生改善を重要政策として位置づけた。当初総督府は各地に衛生所を設置し、日本から招聘した医師による伝染病の発生を抑止する政策を採用した。大規模病院こそ建設されなかったが、衛生所を中心とする医療体制によりマラリア、結核、鼠径腺ペストを減少させ、この医療体系は1980年代まで継承されていた。
設備方面ではイギリス人ウィリアム・バードンにより台湾の上下水道が設計されたほか、道路改善、秋の強制清掃、家屋の換気奨励、伝染病患者の強制隔離、予防注射の実施など公共衛生改善のための政策が数多く採用された。
また学校教育や警察機構を通じた台湾人の衛生概念改善行動もあり、一般市民の衛生概念も着実に改善を見ることができ、また台北帝国大学内に熱帯医学研究所を設置し、医療従事者の育成と台湾の衛生改善のための研究が行われていた。
鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や、農林水産業の近代化などで台湾の生活水準は向上し、農工業の生産も増大した。戦争になると台湾の豊富な食料物資が内地への供給に貢献したほか、高雄には飛行基地が建設され、徴兵制が敷かれるなど、日本人と同様に台湾人も兵士や労働力として活躍した。1945年には選挙法が改正され、台湾から国会議員が選出される道も開かれたが、敗戦により実現はされなかった。また満州国の経営や中国との折衝で台湾人が登用されるケースも多かった。
しかし台湾人の登用はあくまで日本人の補助としての存在であり、多くの有形・無形の差別があった。例えば初等教育においては日本人の通う小学校と、現地人の公学校は明確に区別された。そして高等教育機関進学や官吏登用では制度的に差別された上、日本人の間には台湾人に対する差別意識も存在しており、それを解消すべく戦時中には皇民化政策により日本人との同化が義務化されるなどの政策が行われた。
更に植民地人の間でも差別は行われ、古代、天皇家と姻戚関係があったことなどから朝鮮人は二等国民とされ、台湾人はその下の三等国民とされた。
また、当時理蕃政策と称された台湾原住民に対する統治政策では、原住民の教育水準に一定程度の向上を見ることができ、法的には日本人や中国語系住民とほぼ同等の権利の保障が認められるようになった。しかし現実には社会的な差別は根強く残存していた。
更にこうした差別や、経済的・政治的格差に対する反発から、植民地統治に反抗する武力蜂起も数多く起こった。こうした武力蜂起は日本警察や軍隊により悉く鎮圧され蜂起に参加した者の多くは逮捕、もしくは殺害された。特に、日本統治時代最大規模の武力蜂起である霧社事件の際は、鎮圧への毒ガス使用が検討された。また、蜂起した原住民部族に対する出草(首狩り、理蕃政策の一環として法律で規制されていた風習)が、鎮圧に協力した部族に許可された。このため、事件前に1400人だった霧社地区の人口は、事件後300人にまで減少し、消滅した。
1942年には台湾で陸軍特別志願兵制度が始まり、1944年には徴兵制も実施され、それに伴い、台湾からも衆議院議員を選出できるようになった。約20万人余りの台湾人日本兵(軍属を含む)が日本軍で服務し、約3.3万人が戦死または行方不明となった。先住民族からなる高砂義勇隊は南方戦線で大きな活躍を見せた。しかし日本は国交が無いことなどを理由に補償を拒み、戦後40年以上経った1987年に、漸く一律200万円の弔慰金が支払われた。しかし毎月30万円の遺族年金が支払われている日本人兵士に対し、日本国籍を離脱した台湾人兵士にはそれ以上の支払いはなく、批判する声もある(高金素梅など)。
また日本ではインフラ確立など、植民地統治のプラス面が評価されがちだが、それに対し結局は台湾人でなく日本人の利益を第一義に考えての投資、優遇された日本人商人による搾取、日本の食糧庫・南進基地に位置づけられ、工業化が遅れたなどの批判もある。
台湾では戦後、国共内戦に破れ遷台した中国国民党が、それまで台湾に住む本省人を弾圧(白色テロ)し、1947年に発生した二・二八事件はその最大規模のものである。大陸反攻を国是とし軍事を優先とした政策を実施したため、台湾のインフラ整備は後回しにされた。このため一部の本省人は「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」(狗走豬擱來)と大陸からやってきた人間を揶揄し、日本の統治時代を部分的・相対的に肯定された。
前総統の李登輝は国民党の独裁体制を廃し台湾内での民主化を導いた。李登輝の時代に監修された台湾の歴史教科書「認識台湾(歴史編)」では、従来地方史として軽視されていた台湾史を本国史として扱い、特に日本の統治時代を重点的に論じたが、この認識台湾は陳水扁の民進党政権時代に公教育から撤廃された。
総統引退後の李登輝は台湾の中華民国(中国)からの独立を訴えた。その中で国民党批判と共に日本の統治政策を再評価を訴えている。
一方で国民党や親民党は李登輝の日本評価を売国的であると批判し、日本統治時代についても日本による搾取に過ぎなかったと位置付けた。また民主進歩党では日本統治に対して同情的ではあるが、植民地主義は現代において認められないとの立場を表明しており、日本統治を評価しつつも、その根底に存在した植民地主義を批判する立場を取っている。
日本統治時代の台湾での評価は朝鮮に比べて肯定的であり、その影響もあり日本人は台湾には好意的である。
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^ 戴国W 『台湾総体相』 1989年
^ 林衡道 『台湾史』1989年
^ 呉三連 『台湾民族運動史』1971年
^ 王育徳 『苦悶的歴史』 1979年
^ ?照彦 『日本帝国主義下的台湾』