以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しがすすんでいる。
先史時代の日本列島に住んでいたものを縄文人とよんでいる。(なお佐原眞はこの語の原義である「縄紋土器を使用していた人間」ということを強調するために「縄紋人」という呼称を提唱している。)縄文時代末期・弥生時代に日本列島に移住したものを弥生人といい、その移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。弥生人と縄文人は他の地域(ユーラシア大陸やサフル大陸など)での混合よりもその度合いが高いことから比較的穏やかに交わっていったと推定されている(むろん部族間戦争は多数あったと推定される:時代は下るが例えば倭国大乱など。)。ヤマト王権など倭(後年、大和と改名される)民族を中心とした社会が台頭するとともに、他の住民たちは征服されていった(東方の蝦夷、南方の熊襲と呼ばれた在来人と推定される部族は抵抗した)。後年には、文献記録上、古代日本列島の経験した最大の戦争であった白村江の戦い以後、倭国の同盟国百済からの亡命者も移住し、大和民族に溶け込んでいった。
このように縄文人も弥生人もそのルーツはユーラシア大陸や南方から移住・渡来した人々にあり、それぞれがハイブリッドとしての日本の民族集団を形成する一部となっていった。大和民族が朝廷権力とともに勢力を拡大した後に「日本」という枠組みの原型がつくられ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。もっとも完全に同化されない少数民族は常に存在したし、「日本民族」というような認識(アイデンティティ)が多数者に浸透していくのは明治時代(近代国民国家の成立期)ともいわれる(小熊英二『日本単一民族神話の起源』『「日本人」の境界』)。
旧琉球王国地域については、大和民族の一支族とする主張が伊波普猷などによって提起される一方、文化・歴史の違いなどを抽出して、大和民族とは異なる独自の民族としての琉球民族とする考えもある(沖縄学や琉球語など参照の事)
ネーションステート下の認識大日本帝国の版図
日本が近代ネーションステート(国民/民族国家)として朝鮮半島、台湾島、南樺太などを領有していた時代には、日本人という語は公式には朝鮮人、台湾人などの日本国籍を付与された植民地の先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は内地人と呼ばれた。但し当該の先住民族の間では日本人が内地人と同義として使われることが多かった。
南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフのなかには、日本国籍をもっていたものもいた。そのため、終戦後ソ連によって「日本人」として北海道に強制送還された朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。
単一民族国家を参照
日本は見た目や言語に大差のない人々が多いため、単一民族国家と捉えられることが多い。むろん国内には少数民族も存在するため正確ではない。これは、民族と国籍を混同することにより生じる。とはいえ日本における登録上の外国人居住者の比率が2%以下であり(2006年発表の外国人居住者数約200万人)、日本国籍を保有している居住者が98%を越えることや、大和民族とされる人々が95%[要出典]以上を占めるという主張などは、航空機をはじめとする高度な移動手段が発達した現代日本における均質性を考えるとき、考慮する必要はある。
従来提唱された説として日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする埴原和郎らの二重構造説があった。しかし近年の研究の発展により縄文人も弥生人も北方起源であるとする説や、長期にわたる地域間移動や複数回の大量移動などを示すデータが蓄積されるなか、すくなくとも従来の時代的概念としての縄文人/弥生人という単純な図式では説明できないとする説が台頭し、埴原の二重構造説には多くの批判がある。他方、日本人が重層構造であることは人類学者・考古学者の間では支持する意見が強く、また、分子人類学的なDNA解析(ハプログループによる地域的分布の解析)もあくまで生物学的データであり、文化的な交流や、実際の移動の実態および移動の理由などについては、今後も文化人類学、歴史学、考古学など周辺諸科学の総合的な調査が求められる[7]。
尾本恵市の系統図では、日本人は朝鮮人、チベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌ人とは異なるとしており、ある種の二重構造論となっている。しかし、研究の結果、埴原の『二重構造説』、すなわち原日本人(縄文人)の南方起源説には賛成しかねると述べている[8]。