日本ハリストス正教会
話題の着エロボイス!
今なら無料ダウンロード♪

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


関東大震災とニコライ堂の再建

[12]このようなロシア革命の余震がまだ大きく続く中、日本正教会は1923年関東大震災でニコライ堂が崩落し首都内の幾つかの聖堂も失うという極めて大きな打撃を蒙った。関東大震災で散逸もしくは焼失したとみられる史料も多く(大震災前のニコライ堂の、コンドルによる修正前のミハイル・シチュールポフによる原設計図など)、その損失は測り知れない。

これほどの打撃にも関わらず、セルギイ・チホーミロフ大主教(役職当時)はよく日本正教会を支え、1929年、ニコライ堂を再建した[13]。再建にはセルギイ大主教の全国行脚の甲斐もあってか千島から台湾に至るまでの信者達からの多額の献金があり、これ以降、日本正教会が財政的に自立していく契機の一つとなった。この時、海外の正教会からもニコライ堂の再建に対して多額の献金があったこと、国内においては信徒達以外からもニコライ堂の文化的価値に共鳴した異教徒達からの少なく無い献金があったことが、セルギイ・チホーミロフにより言及されている。現在に至る、再建されたニコライ堂の姿。崩落したドームは形状を変えて復興され、大震災時に高かった鐘楼が倒壊してドームを破壊した事を鑑み、鐘楼は低く抑えられている。また、大震災時に火災が発生した事を反省し、元々少なかった木造部分も殆ど石造に変更された。

大聖堂の成聖式[14]には全国から信者や関係者が集まり、3千人以上が集まったと伝えられている。参加した教役者の数は、大主教セルギイとハルビンの主教ネストルを含み総勢39名であったと記録されている。震災後の東京復興委員会代表となった中川望(元大阪市長)も式典に参加していたが、彼は正教徒であった。

また聖公会の主教ジョン・マッキム博士[15]も祭服着用の上で参加した。ロシア革命以降停滞を余儀なくされていた日本正教会に対し、神学教育等の面で協力していたのは日本聖公会であった。20世紀前半、日本正教会と日本聖公会の間には比較的友好的な協力関係があった。「両教会とも、ローマ教皇教皇首位権に否定的でありつつ、ある程度伝統的な教会である」「ロマノフ朝ハノーヴァー朝の縁戚関係」等の要因により、世界的に正教会と聖公会の合同への機運が高まっていたことも背景にあった。戦後すぐの時期まで両教会の友好的関係は続いていく。しかしながら20世紀後半に於いては世界的な両教会の合同の気運も消滅し、日本にあっても両教会の協力関係はその後継続せず、2007年現在では両教会の関係は特に深いものではなくなっている。


母教会との関係と戦時下の邦人主管者問題

[16]1931年、大主教セルギイは府主教に昇叙された。だがこの頃から、日本正教会には動揺が広がりつつあった。共産主義政権の下で弾圧されその影響下にあるロシア正教会の意思・決定の正当性に疑義を持つ人々は少なくなく、モスクワとの連絡を断たない府主教セルギイに対する疑問の声が上がりつつあったのである。

問題が複雑になったのには国内の事情だけではなく、在外ロシア正教会というソ連からの亡命ロシア人が中心になって結成した小さく無い教会組織が1922年9月13日にセルビアのスレムスキ・カルロフツィ(Sremski Karlovci: Сремски Карловци) を中心に設立され、モスクワとの対決姿勢を鮮明にしていた事にも起因していた[17]

セルギイ・チホーミロフ府主教は母国ロシアでの共産主義革命に深い嫌悪感を隠さず、各種著述でも痛烈な言辞で全否定しているが、同時に在外ロシア正教会の動向に対しても分派的であるとしてあまり好意的な印象を持っていなかったようである。こうした府主教セルギイの微妙な立場・微妙なものの見方は、彼の立場もまた微妙なものとしてしまった。

モスクワとの関係で揺れ動いたのは全世界的に各地正教会にほぼ例外なくみられた現象であったが、日本正教会も残念ながらその例外では有り得ず、教会には亀裂が生じた。このような状況下で、日本政府から日本人主管者を選ぶよう圧力が高まった時、日本正教会は抗すべくもなかった。この時代には日本正教会のみならず国内全ての教会が何らかの抑圧を受けており(「日本キリスト教史」の「昭和から平成へ」を参照)、この点でも日本正教会は例外では有り得なかった。

1940年(昭和15年)、セルギイ・チホーミロフ府主教は引退を余儀なくされ、ほどなくしてニコライ小野帰一主教が日本正教会に着任した。それでも当局の監視は緩む事無く、高齢のセルギイ・チホーミロフ府主教は1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受ける。釈放後ほどなくして、同年8月10日、終戦の数日前に府主教セルギイは永眠した。拷問による衰弱死だったといわれる。74歳であった。11日に遺骸はニコライ堂に安置され、二日後に埋葬式が行われた。日本人正教徒牧島省三の憲兵隊との交渉により、軽井沢方面に居住していた在日ロシア人は許可を得て参列する事が出来た。その後、セルギイ府主教の遺骸は、谷中のニコライ・カサートキン大主教の墓の隣に埋葬された。


戦後から1970年まで

戦後すぐ、日本正教会は当局の圧力によって歪められた教会秩序を正常化しようとしたが、容易ではなかった。GHQから、日本正教会はソ連の影響下にあるモスクワ総主教庁ではなく、のちにアメリカ正教会に発展する事になる「北米メトロポリア」と関係を持つように指令されたからである。

在外ロシア正教会と北米メトロポリアの間の関係も第二次世界大戦前後の時期にこじれており、日本政府の圧力のもと在外ロシア正教会の下にあった主教に叙聖され主教に着任したニコライ小野主教の立場も微妙なものとなった。また、これまであまり関係を持って来なかった北米メトロポリアの指導下に入る事についても日本正教会に動揺が起こった。

全世界の正教会にとって頭の痛い存在であったソ連邦が存続していた以上、ソ連邦の影響下にあるロシア正教会との関係を巡る諸問題は世界的に全正教会に共通したものであり、上述の通り戦後になっても日本正教会に安寧が訪れる事はなかった。

戦後すぐから1970年まで、自らの管轄等の諸問題を巡って日本正教会の動揺は大きく続く。この時代の日本正教会の混乱は極めて大きく全国各地の正教会に及んでおり、様相は二転三転して複雑である。その全貌を公平な立場から俯瞰し記述する事は、今なお極めて困難である。この間、日本には北米メトロポリアから主教が派遣されていた。

このような状態にありながらも日本正教会の奉神礼は継続され、新たな聖歌譜の出版もなされるなど一部では依然として活発な教会活動も継続していたが、日本国内の西方教会が戦後すぐの頃から教勢を大きく拡大していく中、かつてカトリック教会に次ぐ教勢を誇った正教会は教勢を拡大する機会を失い、停滞を余儀なくされる事となった。


ニコライ列聖・自治教会成立-現在

1970年に至り、モスクワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。


完全無料エロボイス♪
「声」は興奮しますよ!

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:107 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki