[14]1931年、大主教セルギイは府主教に昇叙された。だがこの頃から、日本正教会には動揺が広がりつつあった。共産主義政権の下で弾圧されその影響下にあるロシア正教会の意思・決定の正当性に疑義を持つ人々は少なくなく、モスクワとの連絡を断たない府主教セルギイに対する疑問の声が上がりつつあったのである。
問題が複雑になったのには国内の事情だけではなく、在外ロシア正教会というソ連からの亡命ロシア人が中心になって結成した小さく無い教会組織が1922年9月13日にセルビアのスレムスキ・カルロフツィ(Sremski Karlovci: Сремски Карловци) を中心に設立され、モスクワとの対決姿勢を鮮明にしていた事にも起因していた[15]。
セルギイ・チホーミロフ府主教は母国ロシアでの共産主義革命に深い嫌悪感を隠さず、各種著述でも痛烈な言辞で全否定しているが、同時に在外ロシア正教会の動向に対しても分派的であるとしてあまり好意的な印象を持っていなかったようである。こうした府主教セルギイの微妙な立場・微妙なものの見方は、彼の立場もまた微妙なものとしてしまった。
モスクワとの関係で揺れ動いたのは全世界的に各地正教会にほぼ例外なくみられた現象であったが、日本正教会も残念ながらその例外では有り得ず、教会には亀裂が生じた。このような状況下で、日本政府から日本人主管者を選ぶよう圧力が高まった時、日本正教会は抗すべくもなかった。この時代には日本正教会のみならず国内全ての教会が何らかの抑圧を受けており(「日本キリスト教史」の「昭和から平成へ」を参照)、この点でも日本正教会は例外では有り得なかった。
1940年(昭和15年)、セルギイ・チホーミロフ府主教は引退を余儀なくされ、ほどなくしてニコライ小野帰一主教が日本正教会に着任した。それでも当局の監視は緩む事無く、高齢のセルギイ・チホーミロフ府主教は1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受ける。釈放後ほどなくして、同年8月10日、終戦の数日前に府主教セルギイは永眠した。拷問による衰弱死だったといわれる。74歳であった。11日に遺骸はニコライ堂に安置され、二日後に埋葬式が行われた。日本人正教徒牧島省三の憲兵隊との交渉により、軽井沢方面に居住していた在日ロシア人は許可を得て参列する事が出来た。その後、セルギイ府主教の遺骸は、谷中のニコライ・カサートキン大主教の墓の隣に埋葬された。
戦後すぐ、日本正教会は当局の圧力によって歪められた教会秩序を正常化しようとしたが、容易ではなかった。GHQから、日本正教会はソ連の影響下にあるモスクワ総主教庁ではなく、のちにアメリカ正教会に発展する事になる「北米メトロポリア」と関係を持つように指令されたからである。
在外ロシア正教会と北米メトロポリアの間の関係も第二次世界大戦前後の時期にこじれており、日本政府の圧力のもと在外ロシア正教会の下にあった主教に叙聖され主教に着任したニコライ小野主教の立場も微妙なものとなった。また、これまであまり関係を持って来なかった北米メトロポリアの指導下に入る事についても日本正教会に動揺が起こった。
全世界の正教会にとって頭の痛い存在であったソ連邦が存続していた以上、ソ連邦の影響下にあるロシア正教会との関係を巡る諸問題は世界的に全正教会に共通したものであり、上述の通り戦後になっても日本正教会に安寧が訪れる事はなかった。
戦後すぐから1970年まで、自らの管轄等の諸問題を巡って日本正教会の動揺は大きく続く。この時代の日本正教会の混乱は極めて大きく全国各地の正教会に及んでおり、様相は二転三転して複雑である。その全貌を公平な立場から俯瞰し記述する事は、今なお極めて困難である。この間、日本には北米メトロポリアから主教が派遣されていた。
このような状態にありながらも日本正教会の奉神礼は継続され、新たな聖歌譜の出版もなされるなど一部では依然として活発な教会活動も継続していたが、日本国内の西方教会が戦後すぐの頃から教勢を大きく拡大していく中、かつてカトリック教会に次ぐ教勢を誇った正教会は教勢を拡大する機会を失い、停滞を余儀なくされる事となった。
1970年に至り、モスクワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。若干の混乱は未だ続いていたものの、ここに日本正教会は一応安定する事となった。ウラジミル・ナゴスキーが府主教・東京の大主教に、フェオドシイ永島新二が京都の主教に、セラフィム・シグリストが仙台の主教に就任した。一方、依然としてモスクワの直接の管轄を主張するグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」を設立した。
この時、ニコライ・カサートキンが亜使徒として列聖されている。
ほどなくしてウラジミル・ナゴスキー府主教が引退すると、フェオドシイ永島新二が府主教に就任。長く日本正教会の指導にあたった。殊にフェオドシイ永島府主教の下で日本正教会は長らく懸案であった財政基盤を安定的なものとする事に一定程度成功し、自治教会に相応しい内実が整えられていった。細々と続いていた出版活動も拡大が図られ、「時課経」「大斎第一週間奉事式略」等の再発行、「主日奉事式」「徹夜祷(聖歌譜)」「諸聖略伝」の発行等が日本正教会内部向けに行われ、外部向けには長司祭高橋保行、高井寿雄、川又一英などにより活発な著述活動が行われた。
モスクワ総主教庁の直接の管轄下にあって日本正教会と微妙な関係にあったモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとの関係はソ連崩壊後に改善され、フェオドシイ府主教によってポドヴォリエの聖堂が成聖されるほどにまで和解がなされた。生神女福音聖堂
(京都ハリストス正教会)
フェオドシイ府主教の永眠の後、2000年5月、モスクワ総主教アレクシイ2世が来日。モスクワ総主教の訪日は歴史上初めてのものである。アレクシイ2世は、函館・東京・京都を訪れている。アレクシイ2世は京都では京都正教会のほか、二条城も訪れた。東京では今上天皇と会談。東京復活大聖堂(ニコライ堂)ではアレクシイ2世司祷のもと、ダニイル主代郁夫の府主教選立式及び首座主教着座式が挙行された。着座式にはアレクシイ2世総主教とダニイル主代府主教のほかに、ロシア正教会の主教2人、アメリカ正教会の主教2人、日本正教会の主教1人(仙台および東日本の主教セラフィム辻永)も参加した。
東京の大主教および全日本の府主教ダニイル主代は西日本の主教を兼任している。
現在、ダニイル主代府主教の下で伝道活動の復興が図られている。特にダニイル主代府主教は毎週日曜日に自らの執筆によるトラクトを配布し、数々のブックレットを発行するなどして、正教会の精神性についての啓発に力を入れている。代表的なものに『聖神入門』(2005年、日本ハリストス正教会教団発行)、『聖ディオニシオス・聖マキシム・新神学者シメオン』、『聖師父のこころのあゆみ』がある。またモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとは合同の聖体礼儀が挙行されるなど、日本国内のロシア革命以来の傷痕は漸くにして癒されつつある。
1970年以降の他正教会との交流年表
この年表に示したもの以外にも、特に母教会であるロシア正教会を中心に交流が行われている。