日本ハリストス正教会
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歴史


明治時代

明治時代の日本正教会[6]は、日本に正教を伝道したニコライ・カサートキンに多くを負っている。奇しくもニコライ・カサートキンは明治最後の年である明治45年1912年)に永眠しており、明治時代の日本正教会は常にニコライ・カサートキンと共にあった事になる。


伝道のはじめニコライ・カサートキン

1868年(明治元年)、箱館(北海道函館市)で三人の日本人が信徒になったのがはじめ。箱館は当時外国人に公開されていた港のひとつであり、帝政ロシアの領事館が置かれていた。キリスト教はまだ禁止されていたが、領事館の附属礼拝堂付の司祭であるニコライを沢辺琢磨酒井篤礼・浦野太蔵の三人が秘密裡に訪れ、1868年、教理を学び洗礼を受けるに至った(後に沢辺は初の日本人司祭となり、酒井も司祭になる。)。

最初の日本人信徒のうち、沢辺琢磨はニコライのもとを訪れた当初、「『異国の邪教を広める者』を斬ろう」としていたようである。だがニコライの説諭を聞き、正教の教えを受けるに及んで正教信仰を受け入れるに至った。この経緯を使徒パウロ(スラヴ語読み:パウェル)になぞらえて「パウェル」の聖名を与えられた。

当初からニコライは「日本人への伝道」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。ニコライは日本語を熱心に学び、日本人を対象とする布教を積極的に行った。派遣した19世紀後半、および20世紀初頭の開明的なロシア正教会上層部もまた同様の考えであり、「在日ロシア人の為の教会」を建設するのではなく「日本人の為の教会」を建てる事が目指される事となった。この基本方針はその後のニコライの様々な行動に一貫している。

日本語を用いる現在の日本ハリストス正教会の姿は、現地の言語を大事にする正教会の伝統と、これら伝道に携わった人々・機関の方針の延長線上に位置づけられるものであり、正教会の古代から近世に至るまでの伝統が近現代において実を結ぶ過程であったといえる。


東京を拠点とした教勢拡大建立当初のニコライ堂

函館でしばらく宣教を行っていたが東京での宣教を切望していたニコライは、のちに修道司祭アナトリイが函館に着任すると函館をアナトリイに任せ、上京。1872年に神田駿河台の土地2300坪を買い、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議を東京で開催する。神田には神学校を設けた。1880年にはニコライは主教叙聖され、ここからニコライは司祭輔祭をロシア正教会から派遣される主教を待たずに叙聖する事が出来るようになり、日本人神品増加の環境が整った。1891年には大聖堂(東京復活大聖堂 ・通称:ニコライ堂)を建設し、ここを布教の根拠とした。布教範囲は全国に及んだが、東北地方での浸透が著しい。ニコライは日本の寺院の檀家制度のような、一村まるごとを改宗させるという手法で、着実に布教を進めていった。聖使徒イオアン聖堂:石巻ハリストス正教会の旧聖堂。現存する木造教会建築としては日本最古(1880年建造)。

出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国したイリナ山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。ヤコフ・チハイの弟子には小原甲三郎、インノケンティ金須嘉之進(きす・よしのしん)、東海林重吉などがあり、ヤコフ・チハイとともに聖歌指揮・聖歌譜の翻訳・作曲に従事した。同時期に活躍した聖歌指揮者としてディミトリィ・リオフスキィが居る。正教会は急速に教勢を拡大していった。

明治時代、ロシア人の伝道従事者が少なかった(明治時代一貫して、ロシア人神品は日本全国でも4人を超える事は無かった)事を考えれば、驚異的な宣教の成果であった。最盛期には100人を超えていた日本人伝教者(神品ではないが専従職の伝道担当者)を始めとする日本人教役者が伝道の核であると聖ニコライは著書で触れているが、これは実情を反映したものであったろう。


明治中期以降:対露感情悪化の中で

しかし大津事件にみられるように日本の対露感情は悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本正教会もまた各地で迫害を受ける事になる。なお大津事件の際、ニコライは襲撃されたロシア皇太子を見舞い、ロシア皇太子の対日感情の緩和に努めた。ニコライが日本政府内に多くの知己を得ていた事と併せて、このことはロシア人であるにも関わらずニコライが日本政府から概ね信頼を得る結果となった。

ついに1904年日露戦争が開戦される。この時ニコライは、在日ロシア人達による共に帰国する事の勧めを断って日本にとどまり、苦難の下にあった日本人正教徒達を激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の惨敗の報せと停滞する祖国:ロシア帝国の姿に、自らの日記において苦悩を吐露しているが[7]、それでもニコライは「諸君は皇軍の為に祈れ」と指導し、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通す事になる。一方で、ロシア語通訳を必要とし日本の正教会に協力を期待した日本政府に応え、日本正教会は正教信仰を持つロシア人捕虜のケアにも当たり、「日本人の為の日本正教会」が「日本人の為だけの日本正教会」ではない事を行動で示した。

だがニコライが個人的な信頼を日本政府内で得ていようと、そして日本正教会が日本政府と協力してロシア人捕虜のケアを行おうと、反露的な機運は日本正教会にも向けられていった。日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂とその関連施設も暴徒に襲撃されるところであり、あわや火をかけられるところであった[8]。この時は戒厳令の下に出動した近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れたが、こうした事例に当時の日本正教会が置かれた立場が垣間見える。

こうした逆境にも関わらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙[9]された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあってカトリック教会に次ぐ規模であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki