日本ハリストス正教会
■即会いH掲示板■
■18歳以上「入口」■

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


明治中期以降:対露感情悪化の中で

しかし大津事件にみられるように日本の対露感情は悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本正教会もまた各地で迫害を受ける事になる。なお大津事件の際、ニコライは襲撃されたロシア皇太子を見舞い、ロシア皇太子の対日感情の緩和に努めた。ニコライが日本政府内に多くの知己を得ていた事と併せて、このことはロシア人であるにも関わらずニコライが日本政府から概ね信頼を得る結果となった。

ついに1904年日露戦争が開戦される。この時ニコライは、在日ロシア人達による共に帰国する事の勧めを断って日本にとどまり、苦難の下にあった日本人正教徒達を激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の惨敗の報せと停滞する祖国:ロシア帝国の姿に、自らの日記において苦悩を吐露しているが[5]、それでもニコライは「諸君は皇軍の為に祈れ」と指導し、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通す事になる。一方で、ロシア語通訳を必要とし日本の正教会に協力を期待した日本政府に応え、日本正教会は正教信仰を持つロシア人捕虜のケアにも当たり、「日本人の為の日本正教会」が「日本人の為だけの日本正教会」ではない事を行動で示した。

だがニコライが個人的な信頼を日本政府内で得ていようと、そして日本正教会が日本政府と協力してロシア人捕虜のケアを行おうと、反露的な機運は日本正教会にも向けられていった。日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂とその関連施設も暴徒に襲撃されるところであり、あわや火をかけられるところであった[6]。この時は戒厳令の下に出動した近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れたが、こうした事例に当時の日本正教会が置かれた立場が垣間見える。

こうした逆境にも関わらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙[7]された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあってカトリック教会に次ぐ規模であった。

明治最後の年、1912年に大主教ニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花輪が与えられた。外国人宣教師の葬儀に際して時の天皇から花輪が与えられるのは異例の事であった。


大正・昭和時代斜里ハリストス正教会の現在の会堂である生神女福音会堂の遠景。1912年(大正元年)に始まる、日本正教会最北の教会(北海道斜里郡斜里町)である。現会堂は1979年に建てられた。

昭和時代は世界大戦との関連で日本の諸教会が苦難を経験しているが、日本正教会もその例外ではなかったものの、より早い時期からつい最近に至るまで、日本正教会は苦難を経験した。母教会であるロシア正教会に大規模な弾圧を加えた、無神論を標榜するロシア革命の勃発とソ連の成立である。日本正教会の混乱と苦悩は、第二次世界大戦の戦間期にとどまらず、ソ連が存続した期間の長きに亘って続いた。ロシア革命による混乱は日本正教会にとどまらず、ロシア正教会の影響下にあった世界中の正教会に及び、その残滓は今も世界中の正教会の相互関係における課題を残している。このような苦難の時代を経ていながら、日本正教会はよく持ち堪えたと言えるだろう。


ロシア革命という激震の煽り

無神論を標榜するボリシェヴィキによって1917年にロシア革命が勃発しソ連が成立すると、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約以降、数次に亘って更新されてきた日露協約にみられる極めて短い日露協商の時代は終わりを告げた。これ以降、1991年ソ連崩壊に至るまで、日本正教会は「反露感情」のみならず「反共感情」にもさらされていく事になる。正教会は実際には共産主義国家から大弾圧を受けている被害者であり、共産主義者はこぞって正教会の「後進性」を批判しており正教会に一切の好意を持っていなかったにも関わらず、日本正教会及びその関係者は「親露=容共」というあらぬ嫌疑をかけられてしまうこととなった。この困難な時期に最初に直面したのは大主教ニコライの後継者であったセルギイ・チホーミロフ主教(のち府主教)[8]であった。爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂

ロシア正教会はソ連に於いて大規模な弾圧を受けており、ソロヴェツキー諸島の修道院群はレーニンの命令で強制収容所に転用され、救世主ハリストス大聖堂1931年スターリンの命令でダイナマイト爆破された。日本正教会の初代京都主教を務めたペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げた事で知られている。1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、其の他信徒多数が処刑されたとする文献もある[9]。これほどの弾圧がロシア正教会に加えられつつも日本における「ロシア=ソ連」という通俗的観念は拭いがたいものがあり、共産主義政権による被害者である正教会が通俗的には共産主義者の仲間と看做されてしまうという、極めて理不尽な情況が生まれた。

またロシア革命以降、ロシア正教会は共産主義政権との対峙・交渉、及び自教会の維持のみで精一杯となり、他国の正教会を支援する余裕を失った。他国に起こったこうした事情は日本とても例外ではなく、母教会であるロシア正教会からの日本正教会への財政的支援も消滅した。この時点での日本正教会は未だ財政的にすぐに自立出来る状態には無く、給与を支払う事が出来なくなった多くの伝教者を解雇せざるを得なくなり、教勢は衰えた。

なお、ロシア革命から日本に逃れてきた多くの白系ロシア人が日本正教会での信仰生活に加わり、教会によっては2008年現在に至るまで、一定の在日ロシア人系コミュニティを教会内に形成している。特に東京のニコライ堂と、神戸ハリストス正教会にその傾向が顕著である。



★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:104 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki