詳細は開国を参照
1854年の日米和親条約によりおよそ2世紀にわたる日本の鎖国は解かれた。4年後には日米修好通商条約が締結されるが、この条約によると日本側に関税の自主決定権が与えられていないとされていた。同様の条約は英仏蘭露とも結ばれている。これらの不平等条約は半世紀にわたりその後の明治政府を悩ませることになる。このときの主な貿易品目は、日本からは生糸や茶が輸出され、各国、とくに最大の貿易相手国となったイギリスからは毛織物や綿織物、軍事用の武器やその原材料となる金属が日本に輸出されている。
日米修好通商条約などの通商条約の締結によって諸外国の銀貨が日本国内で使用できることが定められた。当時日本国内で同じ価値の金と銀との交換比率は幕府によって1:5と定められていた。だがこの比率は諸外国にくらべて著しく金が割安であり、諸外国ではおおむね1:15の交換比率が成立していた。このため外国商人は日本へ銀を持ち込んで、金と交換し、上海などで再度銀と交換するだけで巨利を得ることができた。こうして大量の金貨(小判)が日本から流出した。幕府は1860年に金の含有量を3分の1に圧縮した万延小判を発行し、ようやく金の流出を止めることができた。ところが、正貨の貨幣価値が3分の1に下落したこと、また諸外国との貿易の開始によって国内産品が輸出に向けられたことによって、幕末期の日本経済はインフレーションにみまわれた。
詳細は殖産興業を参照
江戸幕府から政権を引き継いだ明治政府が直面した課題は、貿易による外貨獲得と不平等条約の改正であった。1870年(明治3年)政府は工部省を設置、また技術導入のためにお雇い外国人を多数採用し、殖産興業推進のため、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など産業振興と産業インフラ整備のための幅広い事業を推進した。
当時の日本にとって輸出品として期待された産品は茶と生糸であった。だが繭から生糸をつくる製糸工程は前近代的な技術に依存していた。このため、近代的な技術を導入した製糸工場を稼動させ、生産量、品質ともに高めていくことが必要であると考えられた。政府はフランスから技術を導入し、群馬県の富岡市に日本初の器械製糸工場である富岡製糸場を設置した。富岡製糸場の製品はアメリカ合衆国などへ輸出されて高い評価を受け、また後に日本全国に建設された製糸工場に技術を伝授する役割も果たした。
詳細は条約改正を参照
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脚注^ 通常、五代十国時代は、後梁の成立した907年から宋の建国された960年までとされるが、宋が北漢を滅ぼすのが979年であることから分裂時代は表向き70年ほど続いていたことになるため、分裂時代を示す本文の趣旨から五代十国時代の年代を示すのは避けた。
^ 12世紀ころからの交易の様子は、福岡市内の博多遺跡群から出土した、浙江省の大規模な龍窯で大量生産された龍泉窯産の青磁をはじめとしておびただしい数の青磁、白磁など輸入陶磁器の出土に反映されている。
関連項目
貿易
日本の経済
日本の経済史
南蛮貿易
(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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更新日時:2008年9月14日(日)01:54
取得日時:2008/10/08 16:12