旗本
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江戸幕府の旗本


概要

江戸時代の旗本は、三河から勃興した徳川氏の家臣が代表的である。ほかに北条武田今川の遺臣、大名の一族や、改易大名の名跡を継ぐ者、遠隔地の豪族で大名になりきれなかった名族、かつて戦国大名や、守護大名などであった赤松畠山別所、北条、富樫最上山名、武田、今川、大友織田金森滝川筒井土岐福島正則の嫡流、庶流の末裔などから構成されている。

石高が8,000石前後で大名待遇の家格を持つ「大身旗本」及び、徳川将軍家の本家筋に当たる松平郷松平家(420石)は、交代寄合と呼ばれた。

儀礼等を司る役目を負う吉良・畠山・今川・武田等の旧名門の家格出身者は家臣団とは別格の高家と呼ばれた。高家ははじめ吉良家など3家であったが、次第に増加して26家となった。高家は1,000石級の者が多く、家柄や官位に比して、家禄は少ないことが多い。高家肝煎は、10万石級の大名と同じ官位が与えられることもあったが、石高は最高でも5,000石未満であった。

御目見以下の家格の者は御家人と呼ばれた。


旗本の生活

旗本・御家人は武家諸法度により統制され、若年寄の支配下におかれた。江戸集住が原則で、交代寄合には知行所に陣屋が与えられ、一般には3,000石以上の旗本(寄合)には大名に準じた知行権(統治権)を有して死刑などの重刑裁判以外の行政権司法権を行使し、大部分を占めた500石以下は徴租権(年貢の納入)以外の知行権は幕府の代官または郡代に委任される事になっていた。幕府は基本的には領主である旗本が知行権を行使することを好まずこれを抑制する方針を取ったが、税収の確保や領内の不祥事は領主である旗本の責任とされるために、500石以下であっても自らの知行権を積極的に行使する旗本も存在していた。

俗に「旗本八万騎」と呼ばれたが、1722年の調査では総数約5,000人、御目見以下の御家人を含めても17,000人の規模であった。ただし、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ80,000人になると言われている(これに対して10万石の大名に許された兵力は2,155人である)

旗本で、5,000石以上の者は、交代寄合を含み約100人。3,000石以上の者は約300人であり、旗本の9割は500石以下である。

なお、宝永年間の記録によれば、旗本の地方高(知行地を与えられていた者の総禄高)は275.4万石で全体の64%を占め、切米・蔵米・扶持受給が石高換算で153.4万石を占めていた。知行地は全国に広がっているものの、関東地方が全体の8割を占め、特に江戸のある武蔵国が全国の旗本知行地の21%、近隣の上総国が12.5%、下総国が11.0%を占めていた。

旗本は石高が低い割には軍役負担が大きく、また石高調整のために相給が行われる事が多く、極端な場合では13名の旗本が1村を分割知行するなどその支配は困難を極め、更に江戸集住の原則から知行取・蔵米取を問わず早くから消費者化が進んだ。幕府成立から30年後の寛永年間には早くも「旗本の窮乏化」が問題とされている。寛政の改革棄捐令の背景もこうした事情があった。

また、小禄や無役の旗本は将軍に拝謁の資格があったものの、実際に拝謁できたのは家督相続・跡式相続のときのみであった。

江戸時代初期には無頼化した旗本奴が存在し、男伊達を称して徒党を組み、市井の町奴と対立し、歌舞伎講談の題材にもなった。


旗本の役職

江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う大番、文官である町奉行勘定奉行大目付目付などの役職についた。無役の旗本は3,000石以上は寄合、それ以下は小普請組に編入された。

旗本の最高の役職は江戸城留守居である。8代将軍吉宗が御三卿を創設してからは、その家老職も江戸城留守居に準ずる地位とされたが、3,000石級の旗本から抜擢されることも珍しくなかった。御三卿は江戸城内に屋敷を持ち、将軍家の家族として取り扱われたため、御三卿の家老は陪臣ではない。

この他、5,000石以上の大身旗本は、将軍側衆、側御用取次、大番頭、書院番頭、小姓組番頭、駿府城代に就任することができた。

幕府が重要都市に置いた遠国奉行は1,000石級の旗本から任じられたが、伏見奉行は譜代大名からも任じられた別格のポストであった。東海道から京に入る要所であり、大名と朝廷を近づけないために、参勤交代の途中で伏見より京側に進むことは認められていなかった。また、将軍の行幸があった日光奉行も他の遠国奉行よりやや格が高かった。猟官運動が盛んに行われたのは長崎奉行であり、貿易に絡む賄賂に近い副収入が見込めたことで人気が高かった。長崎奉行となって大きな財産を築いた旗本もいた。

一方、100石から200石程度の小禄の旗本は、小十人の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、甲府勤番支配頭、火之番組頭、学問所勤番組頭、徒(徒士)目付の組頭、数寄屋頭、賄頭、蔵奉行、金奉行、林奉行、普請方下奉行、畳奉行、材木石奉行、具足奉行、弓矢槍奉行、吹上奉行、膳奉行、書物奉行、鉄砲玉薬奉行、寺社奉行吟味物調役、勘定吟味改役、川船改役をはじめとする諸役職についた。旗本の下位の役職には御家人が就任することもあった。

広敷の役人、賄頭、勘定吟味改役は、小禄の旗本の中から有能な者が選ばれていた。

江戸時代中期以降になると、軍事・警備部門で御家人から旗本に昇進する例はほとんどなくなった。その一方で、広敷や勘定奉行の下役人となり、旗本に昇進した者が出た。

旗本の資格がない者が旗本になる場合は、旗本の役職に3代続けて就任することが原則であったが、将軍に謁見が許されれば御目見得の士として直ちに旗本として認められた。

太平の世が続くと、番方と呼ばれる警備や軍事に関する役職は家柄で選ばれる一方で、役方と呼ばれた行政職(文官)は能力主義を加味した人事が行われる傾向が出てきた。こうした中で200石以上、500石未満の旗本の場合は、老中直属の会計検査役で勘定奉行の次席格でもある勘定吟味役か、幕府収入の4分の1を消費した大奥の庶務責任者として出納の権限や出入り業者の選定権を持った広敷用人となるのが、一応の出世の到達点とされた。

なお、番方は小姓組書院番大番新番小十人組の5つに分類される。これを五番(方)という。

町奉行所附きの与力は馬上が許され200石(200俵)以上の俸禄を受ける者も少なからずいたが、旗本ではなかった。

旗本の仕組みに大きな変化を見せるのは、開国後の安政3年(1856年)に老中阿部正弘築地講武所を開いて、西洋の銃術・砲術を含めた集団戦の訓練を旗本に命じてからである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki