しんどう かねと
新藤 兼人
『日本シナリオ文学全集 2』(理論社、1955年)
本名新藤 兼登
生年月日 (1912-04-22) 1912年4月22日
没年月日 (2012-05-29) 2012年5月29日(100歳没)
出生地 日本・広島県佐伯郡石内村
(現在の広島市佐伯区五日市町石内)
死没地 日本・東京都港区
職業映画監督、脚本家
活動期間1935年 - 2012年
配偶者あり(死別、離別、死別)
著名な家族子:新藤次郎
受賞
東京国際映画祭
審査員特別賞
2011年『一枚のハガキ』
英国アカデミー賞
国連平和賞
1956年『原爆の子』
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
1995年『午後の遺言状』
最優秀脚本賞
1978年『事件』
1995年『午後の遺言状』
特別企画賞
1995年『午後の遺言状』
ブルーリボン賞
監督賞
2011年『一枚のハガキ』
企画賞
1960年『裸の島』
その他の賞
毎日映画コンクール
脚本賞
1950年『偽れる盛装』
監督賞
1995年『午後の遺言状』
備考
近代映画協会会長
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新藤 兼人(しんどう かねと、1912年〈明治45年〉4月22日 - 2012年〈平成24年〉5月29日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は新藤 兼登(読み方同じ)。近代映画協会会長。従三位、広島県名誉県民[1]、広島市名誉市民[2]、広島県三原市名誉市民[3]。
日本のインディペンデント映画の先駆者であった。性のタブーに挑戦したり社会派映画を制作したりと、冒険的な作品を発表した点が、同世代の監督と大きく異なる点である。『鉄輪(かなわ)』のように前衛的な作品まで制作した。脚本作品も、約370本と非常に多い。 1912年(明治45年)、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町石内)生まれ。4人兄弟の末っ子[4]。広島市内から一山越えた農村で豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで没落した[5]。田畑を売り、たったひとつ残った蔵で父母と3人で暮らし、石内尋常高等小学校(現在の広島市立石内小学校)へ通う[5]。当時、長兄は尾道警察署に勤務、姉2人は家が没落したため長姉は花嫁移民として渡米し次姉は広島で看護師になった[4]。なお生家であるその蔵は1999年まで新藤の生家として保存されていたが取り壊され、当地には「生誕の地」碑が建っている[5]。1927年(昭和2年)石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられた[5]。この時代のことは『石内尋常高等小学校 花は散れども』に描かれている[5]
人物・経歴
映画界に入るまで
交通費を貯めるため、兄の紹介で自転車卸「山口バイシクル商会」に勤めた[4]。なおこの商会は高橋源一郎の実家である[8]。大林宣彦によると、新藤は大林の尾道の実家の持ち家に住んでいたことがあり、幼少期の大林は新藤と映画を観たことがあるという[9]。ただ大林が5、6歳の頃つまり1942年・1943年頃と証言しており[9]、この時期ではない可能性が高い。
兄の紹介で京都府警察の刑事の伝手を頼りに、京都へ出る[4]。ただすぐには撮影所には入ることが出来ず、絶望し一度尾道へ帰るが、諦めきれずに再び京都へ戻る[4]。 1934年(昭和9年)22歳の時に新興キネマに入る[4]。志望していた映画助監督への道は狭く、体が小さいため照明からも敬遠され、入ることが出来たのは現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせる[4]。満州国が帝制に移行した年であった。目指す創造する世界とはかけ離れた、長靴を履きながらの辛い水仕事を1年ほどつとめる。撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見、初めて映画がシナリオから出来ているものと知った[4]。 新興キネマ現像部の東京移転に同行し美術部門に潜り込む。美術監督であり美術部長である水谷浩に師事。美術助手として美術デザインを担当した。仲間からは酷評されても、暇を見つけてシナリオを書き続け投稿し賞を得るが、映画化はされなかった。黒沢明や神代辰巳、脚本家の山田信夫らも「監督が脚本を待っていてどうする。待っていても来ないよ。自分で書くんだよ」との言葉を残している。家が近所だった落合吉人
下積み時代
1941年(昭和16年)、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都興亜映画に出向。本作で原寸大の松の廊下を製作したのは新藤である。溝口は俳優から演技を聞かれても「反射してください」というばかりで何も俳優に教えないため、他の俳優・スタッフ同様に新藤も反発していた。