新羅
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官位制度

三国史記』新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代儒理尼師今の9年(32年)に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代法興王の18年(531年)に宰相に相当するものとして「上大等(上臣)」が設けられた。また、三国統一に功績のあった金?信を遇するものとして、第29代武烈王の7年(660年:この年百済を滅ぼす)には伊伐?(角干)の更に上に「大角干(大舒発翰)」、さらに第30代文武王の8年(668年:この年高句麗を滅ぼす)には「太大角干(太大舒発翰)」という位が設けられた。

新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現れであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという慣習は続いているが、真徳女王の代になって651年には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の中侍が上大等に代わって政治体制の要となった。

京位は首都金城に居住する六部のための身分体系でもあり、これに対して地方に移り住んだものに対しては外位という別途の身分体系を併せ持っていた。しかし百済・高句麗を滅ぼした後、両国の遺民を取り込みに対抗していくため、京位・外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。673年には百済から帰属してきた者のうち、百済の2等官の達率の場合には、金城に移住した者に対しては京位10等の大奈麻に当て、地方に留まった者には外位4等の貴干を当てた。翌674年には外位を廃止して、京位に一本化した。さらに唐との戦闘を終えて684年報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾した後、686年には高句麗人に対しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の主簿[7]に対して京位7等の一吉?を当てた。このようにして、百済・高句麗両国の官位体系の序列を格下げした形で新羅の身分体系に組み入れることによって、それまで三国独自に展開されていた身分体系が新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一国家としての内実を整えることに成功したと考えられている。

骨品外位等級京位読み別名と備考(※)
真骨1伊伐?[8]いばつさん、???伊罰干、于伐?、角干、角餐、舒発翰、舒弗邯
2伊尺?いしゃくさん、???伊?
3??そうさん、???判、蘇判
4波珍?はちんさん、???海干、破弥干
5大阿?だいあさん、???※大阿?以上の官位は真骨だけが任じられ、他の宗族は任命されない。
六頭品6阿?あさん、??阿尺干、阿餐 ※重阿?から四重阿?までの4階層が設けられた。
嶽干7一吉?いつきつさん、???乙吉干
述干8沙?ささん、??薩?、沙咄干
高干9級伐?きゅうばつさん、???級?、及伏干
五頭品貴干10大奈麻だいなま、???大奈末 ※重奈麻から九重奈麻までの9階層が設けられた。
選干11奈麻なま、??奈末 ※重奈麻から七重奈麻までの7階層が設けられた。
四頭品上干12大舎だいしゃ、??韓舎
干13舎知しゃち、??小舎
一伐14吉士きつし、??稽知、吉次
一尺15大烏だいう、??大烏知
彼日16小烏しょうう、??小烏知
阿尺17造位ぞうい、??先沮知

ハングル表記については ⇒ko:??? ??を参照。


九州

6世紀以来、新羅は一定の領域に州を設けてその下に郡・村を置き、州には軍主を、村には道使を派遣し、さらに在地の有力者を村主に任命して地方を掌握しようとする、州郡制ともいうべき独自の地方統治を行なっていた。三国統一を果たした7世紀後半からは村を県に改めて、州・郡・県とする支配方法に切り替わっていった。州には都督、郡には郡太守、県には県令を中央から派遣し、さらに州・郡に対しては外司正という検察官を別途派遣する二重化を図った。第31代の神文王の687年には九州が完成し、州治が地方統治の拠点となるとともに、旧三国のそれぞれを三州とすることで、三国の統一を改めて印象付けることに成功したとみられている。

旧領創設時点九州完成時点(687年景徳王による
改称(757年)備考、異称、移転(州治)
州名州治の現在地名創設年州名州治の現在地名
高句麗悉直州江原道三陟市505年河西州江原道江陵市溟州何瑟羅州[9]
新州京畿道広州市553年漢山州京畿道広州市漢州南川州(利川市
比列忽州江原道安辺郡556年首若州[10]江原道春川市朔州達忽州(高城郡)、牛首州
百済所夫里州忠清南道扶余郡671年熊川州忠清南道公州市熊州686年に泗?州を郡に、熊川郡を州とした[11]
発羅州全羅南道羅州市671年?[12]武珍州光州広域市武州686年に発羅州を郡に、武珍郡を州とした[11]
完山州全羅北道全州市685年完山州全羅北道全州市全州下州との混乱・誤記あり[13]
新羅上州慶尚北道尚州市525年沙伐州慶尚北道尚州市尚州甘文州(金泉市)、一善州(亀尾市
下州慶尚南道昌寧郡555年歃良州慶尚南道梁山市良州比斯伐州、大耶州(陜川郡)、押督州(慶山市
居烈州[14]慶尚南道居昌郡685年菁州慶尚南道晋州市康州685年、居烈州から菁州を分割設置。


五小京

新羅は一貫して首都を金城(慶州市)に保ち続けて遷都をしなかったが、領域の拡大に伴って王都が南東辺に偏りすぎていることが課題となっていた。軍政的側面の強い州郡制の整備と平行して、6世紀中頃よりかつての敵国の地に小京が副都として設けられた。小京に対しては中央から仕臣・仕大等が派遣されて地方行政支援の役割を担うとともに、王都金城の貴族や住民が移住させられて新羅文化の各地への普及が図られた。これら小京は685年に五小京として整い、九州の州治とあわせて地方統治の徹底がなされたと見られる。

設置時の小京名
(括弧内は景徳王による改称)設置年次元の地名現在の地名所属州


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki