郵政三事業民営化関連法案(郵政民営化)に反対した自由民主党所属議員に対し、法案が参議院で否決されると、第2次小泉内閣はこれを理由に衆議院を解散し、反対した衆議院議員は総選挙で党公認しないと発表。対立候補(いわゆる「刺客」)を急ピッチで擁立した。無所属候補は公職選挙法の規定により、選挙で不利な扱いを強いられることから、自由民主党の公認を受けられず離党した議員・元議員と田中康夫長野県知事(当時)により、新党日本が結成された。設立時の国会議員は滝実、青山丘、小林興起、荒井広幸の4人。
初代党首には田中が就任するが、第44回総選挙には出馬せず長野県知事のまま党首を務めることになる。しかし、当初は国会議員4人しかいなかっため、国会議員5人以上必要とする公職選挙法の政党の要件を満たせず、政治団体としての発足であった。その後、この時点で友好関係にあると見られていた国民新党側の配慮によって長谷川憲正参議院議員の同党からの移籍を受け入れ(同年9月12日に国民新党へ復党)て、8月23日に公職選挙法の政党要件である国会議員5人以上の要件を満たす事となった。このことからマスメディアからは「選挙互助会」と批判されたが、田中代表は8月27日付の『毎日新聞』朝刊で「靖国神社参拝や国家観で隔たりのある自民党と公明党」の連立や、「さまざまな考えの方が政権を獲得するという一点で集まっている民主党」も選挙互助会だと反論した。
この背景には、政党とその他の政治団体(無所属含む)では、公職選挙法に認められた選挙運動の範囲にポスター枚数、政見放送や重複立候補の有無など、大きな差がある実情がある。新党日本結成の背景に、政党にしないと選挙運動の制限が厳しくなり、極めて不利になるという理由が大きな要素を占めていた。ただ新党日本は8月17日にほぼ同じ目的で結成された国民新党と異なり、都市型政党を目指していた。
また、急に政党が結成されたため、群馬県選挙管理委員会の2005年衆院選の選挙標語「ニッポン ファイト! 未来を 支えるこの一票」が「新党日本」への応援と誤解されないために、投票啓発用のチラシ12万枚などが配布中止となる事態も発生した。
総選挙では東京・北関東・南関東・近畿・東海ブロックのみに比例候補を擁立し、当該比例ブロックでの自民系反郵政民営化票の受け皿となった。また国民新党とは比例ブロックで重ならないようにした(しかし、国民新党側に不満はあった)。総選挙では近畿ブロックで滝実が当選したのみで、所属する国会議員は滝と荒井の2人となったが総選挙において有効投票総数の2%以上の得票があったため、国会議員がいれば次回衆院選まで政党要件を満たすこととなった(長谷川憲正の国民新党への復党はこの理由による)。国会内では、国民新党と統一会派(院内会派)を組んだ。
総選挙後は、同じ立場にある国民新党と異なり、離党者が相次いだ。まず、2006年5月に党副代表・青山丘と宮本一三が離党し、国民新党へ移籍。また同年10月31日には、代表代行であった小林興起が離党し、11月1日に国民新党に入党した。
2006年8月には、長野県知事選挙で党代表であり現職知事であった田中が再任を目指して立候補。田中は2人の国会議員が所属する国政政党の党首であったが、多くの報道では田中を無所属候補として扱っていた。長野県知事選挙で田中は村井仁に敗れ落選。報道では、党の存続を危惧する見方もあったが、今後も現体制で党活動を継続する方針を示した。
2006年9月、参議院の首班指名選挙において、荒井広幸幹事長が民主党・小沢一郎、国民新党・綿貫民輔のいずれにも投票せず、10年来の親友であった自民党総裁・安倍晋三に投票した(衆議院の首班指名選挙では新党日本議員の滝実が綿貫に投票している)。新党日本は党首の田中康夫が国会議員でないため自主投票としていたが、この行動に反自民を鮮明にしている国民新党側が反発し、荒井への厳正処分を要求した。新党日本代表の田中康夫が荒井を処分しない方針をとったため、10月2日に国民新党は新党日本との統一会派を解消すると発表した。新党日本の国会議員は全員自民党から除名されているため、自民党復党は容易なことではなく、この国民新党からの三行半は新党日本の存続と、党参加者のそれ以降(後述)の政治生命に大きく影響を与える可能性が出た。
2007年の第21回参議院議員通常選挙では、綿貫は『スポーツ報知』の取材に「最初は国民新党と兄弟みたいな形でスタートしかかったが、途中から手法が変わったので、私たちは絶縁した。だから今は一切、関係ありません。無視しています。党首討論で田中(康夫代表)が来ても、あいさつもしません。知らん顔してます。“コンマ以下”という風にみてます」、「わがままいっぱい。本当は一緒になるべきところを、荒井君らが田中康夫を連れてきて、知名度を利用しようとした。選挙でも(新党日本は)大都市圏に集中して候補者を擁立したが、それに対し『国民新党は候補者を立ててもらっちゃ困る』というような条件まで出してきた。そんなバカなことはない。こんなこと許すかという感じで『このヤロー』となった。ライバルというより敵(かたき)ですね」など、痛烈に批判している(「 ⇒ラストサムライ?いや、これからのサムライだ…党首直撃《5》国民新党・綿貫民輔代表」)。
新党日本は2006年8月の長野県知事選挙以外、地方選挙に事実上参加していない。2006年に行われた香川県知事選・福島県知事選・沖縄県知事選では党推薦・支持を出したものの、党としての実質的な活動はなかった。2007年4月の東京都知事選挙や統一地方選挙においては、田中が北海道夕張市長選挙への立候補を示唆していたものの結局見送った。