兵庫県但馬国出石郡(現在の豊岡市出石町)生まれ。21歳の冬に、東京まで徒歩で移動する[1]。上京後は後に徳島県知事である桜井勉の書生となる。1891年(明治24年)9月東京専門学校(現早稲田大学)行政科に入学、1894年(明治27年)7月に同校同学科を首席で卒業。同年判検事試験(現、司法試験)に不合格も翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現、司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。
その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し公法や政治学などを勉強する。
帰国後の1912年(明治45年・大正元年)立憲国民党より総選挙に出馬、見事初当選を果たす。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。
第2次世界大戦前は立憲国民党、立憲同志会、憲政会、立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。
この間浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。
卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判して1936年(昭和11年)5月7日に、「粛軍演説」を帝国議会で行った。また、国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日には、「国家総動員法案に関する質問演説」を帝国議会で行った。更に1940年(昭和15年)2月2日に「反軍演説」(「支那事変処理に関する質問演説」)を帝国議会で行った。
反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまった。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲く。
第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部(現、総務省行政評価局・行政管理局)総裁)として初入閣する。
1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去(享年80)。
『ネズミの殿様』と国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではない程であった。『ネズミの殿様』の由来は小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったところからである[2]。
記念館
静思堂 - 故郷の出石に開設された。
著作
⇒『比較国会論』
⇒『洋行の奇禍』
⇒『回顧七十年』
⇒斎藤 隆夫:作家別作品リスト(青空文庫)
脚注^ ⇒『回顧七十年』「上京し、弁護士となる」より。
^ ⇒『回顧七十年』「アメリカに留学」を参照。グレース・ホスピタルでの治療が理由のようである。
外部リンク
⇒斎藤隆夫記念館:兵庫県出石郡出石町(現・豊岡市)
NHK その時歴史が動いた: ⇒我が言は、万人の声〜太平洋戦争前夜、日本を揺るがした国会演説〜
参考文献
草柳大蔵『齋藤隆夫かく戦えり』(グラフ社、2006年) ISBN 4766209613