中華人民共和国での思想統制は建国前後に既に始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになった為、独自路線としての毛沢東思想が更に強調されるようになっていった。
1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。
1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。
1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。
その報告には「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面をあばき出すより他ない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない」と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。なお、前半部分は1965年に周恩来が政治報告で意見した内容と同一であり、当時の毛沢東の認識と一致している。毛沢東はのちに「実権派は立ち去らねばならないと決意したのはいつか」とのエドガー・スノーの問いに対し、1965年12月であったと答えている。
共産主義思想
マルクス主義 ? レーニン主義
スターリン主義 ? トロツキー主義
毛沢東思想 ? ユーロコミュニズム
国際組織
コミンテルン ? コミンフォルム
第四インターナショナル
人物
マルクス ? エンゲルス
レーニン ? トロツキー
スターリン ? 毛沢東
出来事
ロシア革命 ? 大粛清
スターリン批判 ? ハンガリー動乱
中ソ対立 ? 文化大革命
プラハの春 ? 天安門事件
東欧革命 ? ソ連崩壊
表・話・編・歴
毛主席語録
毛沢東は大衆の間で絶大な支持を受け続けていたが、1950年代の人民公社政策や大躍進政策の失敗によって1960年代には指導部での実権を失っていた。文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、毛沢東自身が仕掛けた、実権派に対する奪権闘争という側面もある。特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた「五人組」であったとする見方もある。原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。
しかし次第に毛沢東思想を権威として暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能となり、1968年以後、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして大規模な徴農と地方移送が開始された(上山下郷運動、一般的には下放と呼ばれる)。紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育及び倫理的に大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引して行く年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしている。
実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目された?小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉?、儲安平などは自ら命を断った。