公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三分過」と言う?小平の発言が公式見解のようだ。一応国定教科書にも取り上げられるが、中華人民共和国は現在も実質上の言論統制下にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述に止まった。
2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があった為に、中華人民共和国内では一切報道されなかった。この様に「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。
エピソード中央に文化大革命時に加えられたプロパガンダ・スローガン“無限信仰毛主席”の跡が見える、武漢大学毛沢東バッジ
紅衛兵は、街路や病院などの名前を、勝手に「革命的」なものに変更して回った。例えば、ソ連大使館があった揚威路は「反修(反修正主義)路」、アメリカの資金で建設された協和医院は「反帝(反帝国主義)医院」など。標識が撤去できなかったために変名を免れた道路もある。
紅衛兵はまた、「赤は革命の色であるから赤信号で止まるのはおかしい。赤信号で進んで青信号で止まるべきだ」と主張した。この案が却下されるにあたっては、なんと周恩来が動いたとの説もある。他にも、「道路の右側を通行するのはアメリカ帝国主義的であるから左側通行にすべき」との主張もあったが、帝国主義においてアメリカの先生的存在であるイギリスが左側通行との理由で取り止めになった。
当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞が出た。
文革中の中華人民共和国の切手は、毛沢東語録を中心とする「革命的」題材で埋め尽くされ、スポーツ関係の記念切手に肝心のスポーツ場面が全くなくプロパガンダに終始していたこともあった。
文革期の中華人民共和国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、その新聞をたきつけに使ったり尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。
陶磁器や金魚、月餅など古い歴史を持つ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊され、陶磁器が割られたり金魚が殺されたりした(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用した)。文革の結果こうした伝統産業は壊滅的打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術も殆ど失われたが、文革後一部では日本の関連業界や生産者の支援で再興されている。
纏足や女中などの古くからのしきたりも廃止された他、麻雀や闘蟋(とうしつ)などの賭けを伴うゲームも禁止された。
博物館の館員や美術店の店員は文化財を上述のような破壊活動から守る為に、文化財に毛沢東の肖像画や語録を貼り付け回ったという。そうすることで紅衛兵も破壊活動に出られなくなったという。
大学での研究教育には大きな遅滞が生じたが、一方で核兵器やミサイルの開発などの軍事的研究はこれらとは別個に行われていた。
司馬遼太郎は当初、文化大革命に肯定的であったが中国を訪れた際孔子に見立てた人形を破壊する光景を目の当たりにし転向し、反中国共産党に転じることになる。
「批判闘争大会」と呼ばれる吊し上げは町の広場やスタジアムで大勢の群衆を集めて行われた。批判される者に対して「反革命分子」のプラカードと三角帽をつけさせ、「ジェット式」と言う椅子に立たせて上半身を折り曲げる姿勢を数時間とらせた。その間に罵詈雑言を浴びせたり、墨を頭からかけたり、頭髪を半分剃りあげるなど肉体的精神的に痛めつけた。中には長時間の暴行に及ぶこともあった。また、辱めをあたえることもあり、1967年、劉少奇夫人の王光美はピンポン玉のネックレスを首からかけさせられブルジョワと非難された。
寝室に毛沢東の肖像を飾っていた新婚夫婦は「主席の前でセックスをした」と非難された。夫婦は「その時は電気を消していた」と反論した。
1968年10月、パキスタン外相からマンゴーを送られた毛沢東は、北京の主要工場に1個ずつ分け与えた。その一つ北京紡績工場では、工場関係者がマンゴーを祭壇に設けて毎日一礼した。マンゴーが腐りかけると果肉を茹で、その汁を従業員全員に恭しく飲ませ、その後マンゴーのレプリカを祭壇に飾った。
毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。
脚注^ 日本が独立を回復した1946年のサンフランシスコ講和会議には中国代表団は参加していなかったものの、1947年には戦前から存在する中国政府である中華民国(中国国民党)政府と国交を回復しすでに戦争状態は終結していた。しかし中華人民共和国(中国共産党)政府は第二次大戦後に成立した国家でもあり、かつ従前の国交がある中華民国も存続していたため、外交的にはまったく手つかずの状態でだった。中国共産党からすれば日本は抗日戦を戦った敵国であるし、日本からすれば中国政府=中華民国(すでに和解)という理解であったわけである。しかし中国とされる領域の実質的な支配者が中華人民共和国となったことをうけての本条約締結となった。
^ 加々美(2001)
関連項目
粛清
大粛清(ソビエト連邦)
大躍進
四五天安門事件 (第一次天安門事件)