文化大革命は、その悲惨な実態が明るみに出ると、全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎らの論者に対し、その責任を問うかたちで批判が集中したのである。
批判者としては、自由主義の立場に立って、反共産主義、反マルクス主義をとなえた中嶋嶺雄、西義之、辻村明らがおり、中国封じ込め政策にも支持を表明した。いっぽう、丸山昇、野沢豊らの日本共産党主流派に近いマルクス主義者も「礼賛派」がいかに事実をねじ曲げていたかを厳しく批判した。
加々美光行は、批判者たちは自由主義と共産主義とで正反対の政治的ないし思想的立場にありながら、そこには毛沢東の政治的保身に発する権力闘争以上のものでないとして歴史的、思想的意義を認めない立場に立っている点で相似していることを指摘したうえで、文化大革命は、実際に社会主義理念をめぐる対立に由来するものであり、それゆえ、表面的にはともなく深層においては現代中国を呪縛しつづけているのであって、文化大革命が提起しながら未決着のまま残された課題は多く、今後、中国の社会主義の動向、とくに民主化をめぐってその課題は再燃するであろうと予測している[2]。
1981年6月に中共11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」としている。
文化大革命期間中の中華人民共和国では大学が1972年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験は行われず、青年は農村に下放された為、専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。1954年生まれの中華人民共和国駐日大使の王毅など、中華人民共和国の指導的人物に若い世代が多いのもこれが原因である。紅衛兵、吊るし上げられた人の相違を問わず現在の中国を無批判に評価している人物は少ないと推測される。
なお、国内的には1981年に行われた「歴史決議」によって一定の終息をみた文革だが、国際、外交面における完全な終息にはなお数年ないし十数年の持続があったと思われる。
公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三分過」と言う?小平の発言が公式見解のようだ。一応国定教科書にも取り上げられるが、中華人民共和国は現在も実質上の言論統制下にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述に止まった。
2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があった為に、中華人民共和国内では一切報道されなかった。この様に「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。
エピソード中央に文化大革命時に加えられたプロパガンダ・スローガン“無限信仰毛主席”の跡が見える、武漢大学毛沢東バッジ
紅衛兵は、街路や病院などの名前を、勝手に「革命的」なものに変更して回った。例えば、ソ連大使館があった揚威路は「反修(反修正主義)路」、アメリカの資金で建設された協和医院は「反帝(反帝国主義)医院」など。標識が撤去できなかったために変名を免れた道路もある。
当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞が出た。
文革中の中華人民共和国の切手は、毛沢東語録を中心とする「革命的」題材で埋め尽くされ、スポーツ関係の記念切手に肝心のスポーツ場面が全くなくプロパガンダに終始していたこともあった。
文革期の中華人民共和国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、その新聞をたきつけに使ったり尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。
陶磁器や金魚、月餅など古い歴史を持つ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊され、陶磁器が割られたり金魚が殺されたりした(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用した)。文革の結果こうした伝統産業は壊滅的打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術も殆ど失われたが、文革後一部では日本の関連業界や生産者の支援で再興されている。
纏足や女中などの古くからのしきたりも廃止された他、麻雀や闘蟋(とうしつ)などの賭けを伴うゲームも禁止された。
博物館の館員や美術店の店員は文化財を上述のような破壊活動から守る為に、文化財に毛沢東の肖像画や語録を貼り付け回ったという。そうすることで紅衛兵も破壊活動に出られなくなったという。
大学での研究教育には大きな遅滞が生じたが、一方で核兵器やミサイルの開発などの軍事的研究はこれらとは別個に行われていた。
司馬遼太郎は当初、文化大革命に肯定的であったが中国を訪れた際孔子に見立てた人形を破壊する光景を目の当たりにし転向し、反中国共産党に転じることになる。
「批判闘争大会」と呼ばれる吊し上げは町の広場やスタジアムで大勢の群衆を集めて行われた。批判される者に対して「反革命分子」のプラカードと三角帽をつけさせ、「ジェット式」と言う椅子に立たせて上半身を折り曲げる姿勢を数時間とらせた。その間に罵詈雑言を浴びせたり、墨を頭からかけたり、頭髪を半分剃りあげるなど肉体的精神的に痛めつけた。中には長時間の暴行に及ぶこともあった。また、辱めをあたえることもあり、1967年、劉少奇夫人の王光美はピンポン玉のネックレスを首からかけさせられブルジョワと非難された。
寝室に毛沢東の肖像を飾っていた新婚夫婦は「主席の前でセックスをした」と非難された。夫婦は「その時は電気を消していた」と反論した。
1968年10月、パキスタン外相からマンゴーを送られた毛沢東は、北京の主要工場に1個ずつ分け与えた。