共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医者高級官僚などの知識人等が弾圧の対象となった。その後弾圧の対象は中国共産党員にもおよび、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。期間中の行方不明者を含めた虐殺数は、数百万人から約3,000万人と言われ、これによって中国の経済発展は20年遅れたと言われている。
ときの政権の最高権力者が民衆を煽動して現政権内の政敵を打倒するという、一般の革命とは一線を画すクーデターである。
1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、
1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であったこと
建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと
中ソ対立など国際的な社会主義運動の対立
など、さまざまな原因が考えられる。
文化大革命は大きく3段階に分けられる。第1段階は1966年5月の紅衛兵結成から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第2段階は1973年8月の第10回党大会における林彪事件の総括まで。第3段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。
期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。
中華人民共和国での思想統制は建国前後に既に始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになった為、独自路線としての毛沢東思想が更に強調されるようになっていった。
1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。
1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。
1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。
その報告には「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面をあばき出すより他ない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない」と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。なお、前半部分は1965年に周恩来が政治報告で意見した内容と同一であり、当時の毛沢東の認識と一致している。毛沢東はのちに「実権派は立ち去らねばならないと決意したのはいつか」とのエドガー・スノーの問いに対し、1965年12月であったと答えている。
共産主義思想
マルクス主義 ? レーニン主義
スターリン主義 ? トロツキー主義
毛沢東思想 ? ユーロコミュニズム
国際組織
コミンテルン ? コミンフォルム
第四インターナショナル
人物
マルクス ? エンゲルス
レーニン ? トロツキー
スターリン ? 毛沢東
出来事
ロシア革命 ? 大粛清
スターリン批判 ? ハンガリー動乱
中ソ対立 ? 文化大革命
プラハの春 ? 天安門事件
東欧革命 ? ソ連崩壊
表・話・編・歴