紀元前296年、趙は中山を滅ぼし、主父は前太子の章を北方の代に封じて安陽君とした。この主父の好意を見た章は、復位の機会があるのではと思うようになり、そこで策をめぐらして恵文王を殺そうとした。
翌紀元前295年、主父は章の不満に気づいて、章と恵文王を沙丘(河北省)に呼び出して、宴席を設けて仲を取り成そうとした。その際、章は兵を配して恵文王を殺そうとしたが、恵文王は何とか逃れ、その間に王の臣が兵を集め章の軍を破った。章は主父の館に逃げ込み、王の兵は主父の館を包囲した。章はここで餓死するが、王の側からすれば主父に対して兵を向けた形になり、包囲を解いて主父を自由にしてしまえばその後で誅殺される恐れがあり、そのまま包囲を続け、主父は餓死した。
その後も恵文王は政務を執り続けるが、稀代の戦争上手である主父の時代と比べればその軍事力には衰えが見られ、主父の時代には有利な政略を取り続けていた秦に対して不利な情勢に陥る。
ある時、秦から恵文王が持っていた類まれな璧(宝石の一種)を「十五城と交換したい」と言ってきた。しかし秦を信用して果たして約束が守られるかどうか。恵文王は悩んだが、そこに藺相如が名乗りを挙げて秦に赴き、やはり約束を守る気の無かった秦から璧を無事持ち帰った。(「完璧」)
また279年には秦からの招きを受けて恵文王が秦に行った時に藺相如は同行した。この時に秦の昭襄王は恵文王に対して瑟(しつ、弦楽器の一種)を無理やり弾かせ、その事を国史に記述した。王に対して楽士の真似事をさせるとはと怒った藺相如は昭襄王に?(素焼きの器、歌を謡うときにこれを叩く)を差し出してこれを叩いてくれと迫った。昭襄王は当然これを断ったが、「断るならばここであなたを刺す。」と言い、昭襄王が一回だけ?を叩いたので、そのことを国史に記述させた。(「?池の会」)
その後も基本的に秦に従って斉などを攻めていたが、斉から送られてきた蘇?(蘇秦の弟)の言に従って秦に背くようになる。
この時になり、名将廉頗・趙奢の両将が登場した事で度々秦に戦勝し、弟の平原君の活躍もあり、趙は安定した時代をむかえた。しかし趙は恵文王の死後、長平の戦いで秦の白起に大敗し、一気に滅亡の道へと転がり落ちていく。 カテゴリ: 春秋戦国時代の人物 | 中国の君主 | 紀元前266年没
更新日時:2008年7月6日(日)04:17
取得日時:2008/08/21 11:59