光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれ、後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟・綱條を養子に迎え世継ぎとした。また、光圀には側室との間に実子(頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。
幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。さらに、野犬50匹を捕らえてその皮を綱吉に献上したこともある。
また、オランダ製の靴下(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。
鮭の皮が好物で「厚さ一寸の鮭の皮を食べられれば死んでも良い」と語ったといわれる。さらに、吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。
当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。
『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与える。延宝2年(1674年)には、父・頼房の実母(お万の方)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、鎌倉に出向く。この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏め上げた。更に貞享2年(1685年)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じる。
元禄5年(1692年)には、南北朝時代に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。尚、その場所は明治5年(1872年)明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像も建立されている。
大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業に注ぎ込むこととなる。
財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子・綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、享保元年(1716年)の将軍・徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の内、最年長であるにも関わらず、紀州藩主・徳川吉宗が後継者に選ばれた。
以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行わず江戸に定府することとなる。常に将軍のそばに居る事から水戸徳川家藩主は(俗に)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる。結局、2代目藩主・光圀以降、水戸藩9代藩主・斉昭の七男・慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。また、慶喜は一橋家に養子に出され、そこから将軍職に就いたので、系譜上では水戸徳川家から直接将軍に就いた訳ではない。
光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。結果的には「水戸学」が目指した“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面も存在し、単純に「名君」として評することはできない。
水戸徳川家は、徳川氏が天皇(朝廷)と対立した場合、徳川の血筋を残すために天皇側につくように定められ、将軍を出さないよう決められていたとの考えもある。