常陸国水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。水戸黄門としても知られる[1]。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。
藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、蝦夷地の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての水戸黄門(黄門漫遊伝説)が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。
現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われており、光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。
寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。光圀の母は家臣谷重則の娘である久子で、『桃源遺事』によれば頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。光圀を懐妊した際に父の頼房はまだ正室を持ってはいなかった。後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼房の側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)がこれに機嫌を損ねたため頼房は堕胎を命じ、同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、密かに自邸で出産したという。また、光圀の同母兄である頼重出産の際にも同様の先例があったという。
『西山遺文』によれば幼少時には三木夫妻の子として育てられたと言われ、光圀の侍医井上玄桐の記した『玄桐筆事』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることを伺わせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆事』などの伝記史料には幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。
寛永9年(1632年)に光圀と兄(頼重)の存在が明らかになり水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老中山信吉(備前守)が水戸へ下向して行われており、3代将軍家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に拝謁している。寛永13年(1636年)には元服し、将軍家光からの偏諱を与えられて光国と改める。
承応3年(1654年)には前関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。
寛文元年(1661年)8月19日、常陸国水戸藩28万石の2代藩主となる。弟・松平頼元に常陸国那珂郡2万石(額田藩)を分与し、26万石となる。寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。
延宝7年(1679年)、諱を光圀に改める(光圀52歳)[2]。元禄3年(1690年)10月14日に隠居し、藩主の座を退き綱條に譲る。元禄4年(1691年)、西山荘に隠棲した。元禄7年(1694年)11月23日、幕閣や諸大名を招いて行われた能舞興行の際、人払いをした密室で重臣の藤井紋太夫を刺殺した。72歳頃より食欲不振が目立ち始め、元禄13年(1700年)12月6日に食道癌のため死去。享年73(満71歳没)。
光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれ、後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟・綱條を養子に迎え世継ぎとした。また、光圀には側室との間に実子(頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。
幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。