大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業に注ぎ込むこととなる。
財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子・綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、享保元年(1716年)の将軍・徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の内、最年長であるにも関わらず、紀州藩主・徳川吉宗が後継者に選ばれた。
以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行わず江戸に定府することとなる。常に将軍のそばに居る事から水戸徳川家藩主は(俗に)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる。結局、2代目藩主・光圀以降、水戸藩9代藩主・斉昭の七男・慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。また、慶喜は一橋家に養子に出され、そこから将軍職に就いたので、系譜上では水戸徳川家から直接将軍に就いた訳ではない。
光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。結果的には「水戸学」が目指した“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面も存在し、単純に「名君」として評することはできない。
水戸徳川家は、徳川氏が天皇(朝廷)と対立した場合、徳川の血筋を残すために天皇側につくように定められ、将軍を出さないよう決められていたとの考えもある。それを変えたのが8代将軍吉宗である。出自の紀州徳川家の地位を向上させ、御三家と同種の機能を持つ御三卿を創始するなど、徳川宗家と御三家の立場やあり方を変えてしまったことに原因があるようだ。そのため出るはずのなかった水戸徳川家からの将軍が出ることになった。
和暦西暦月日
(旧暦)年齢内容
寛永5年1628年6月10日0常陸国水戸藩主徳川頼房の三男として生まれる。
寛永9年1632年5月3日5従五位上左衛門督叙任。
寛永10年1633年1月6世子に決定。
9月5日従四位下右近衛権少将に昇叙遷任。
寛永13年1636年7月6日9元服し、徳川家光の一字を賜り光国と名乗る。
寛永17年1640年3月4日13従四位上右近衛権中将に昇叙転任。
7月11日従三位に昇叙。右近衛権中将如元。
承応3年1654年27前関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。
寛文元年1661年8月19日34水戸藩28万石の2代藩主となる。
寛文2年1662年12月18日35参議補任。
延宝7年1679年52諱を光国から光圀に改める[2]。
元禄3年1690年10月14日63隠居。
10月15日権中納言となる。
元禄13年1700年12月6日73西山荘にて没する。享年73(満71歳)。
天保3年1832年3月5日没後贈従二位権大納言
明治2年1869年12月25日贈従一位
明治33年1900年11月贈正一位
明治39年1906年徳川圀順が『大日本史』を完成させる。
系譜
父:徳川頼房
母:谷重則の娘・久子
正室:近衛信尋の娘・尋子(泰姫)
側室:玉井氏
長男:松平頼常
長女:戸田光規室
父・頼房や同時代の他の大名と比較して、長命を全うした大名としては非常に寂しい家族関係である。幼少時の扱いがトラウマとして影を落としたのではないかという説もある。
墓所・霊廟瑞龍山義公廟
墓所 - 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている。
霊廟 - 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の靖定山久昌寺の義公廟がある。
奉斎神社 - 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀る。
脚注^ 「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の漢風名称である。一般に「水戸黄門」と言えば光圀のことを指すが、水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤であるため、水戸黄門は7人いたということになる。