御木本幸吉
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真円真珠

明治41年(1908年)、真円真珠の特許権を取得。


人々の協力

明治29年(1896年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳の若さで没した。

志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。

親友の四日市万古焼商人だった川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。

他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は明治8年(1875年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを勤め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。


量産体制

大正7年(1918年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが大正10年(1921年)、ヨーロッパの宝石商は天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定する騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH.L.ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。大正13年(1924年5月24日パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。昭和2年(1927年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界で認める宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。


大往生

昭和29年(1954年)9月21日、御木本幸吉は96歳で亡くなった。老衰による大往生と言ってよいだろう。持病は胆石があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようである。当時は朝鮮戦争が終わって景気は悪くなかったがまだ米穀通帳やら外食券食堂があり、旅行には米を持参する時代であった。戒名は真寿院殿玉誉幸道無二大居士。


幸吉の心痛と長寿の賜物

幸吉は単に真珠の養殖と真珠貝の養殖に成功しただけでなく、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。なお幸吉の一人息子・隆三(1893年 - 1971年)は一高時代に英国の思想家ジョン・ラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、その後昭和12年(1937年)に破産、禁治産者申請へと至るが、隆三の人生を辿るだけでも壮絶なドラマである。幸吉の心痛の思い、いかばかりかの感であるが、結果的に幸吉が96歳まで長寿を保ったという事実が長男の事件と第二次世界大戦の2つの大事件を克服し、ブランドを他家に取られず本家を世界周知のミキモトとして飛躍に至らしめたといえよう。


天皇との逸話

明治38年、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉に与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠で飾ってご覧に入れます」と大見得を切った。その際、幸吉の周囲の人間は大いに慌てたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。

また、第二次世界大戦後、様々な地を行幸した昭和天皇が幸吉の所を訪れた際に、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が人間宣言をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。


参考文献

ミキモト編『御木本真珠発明100年史』 株式会社ミキモト 平成6年(1994年)7月出版(共同刊行者 株式会社御木本真珠島、御木本製薬株式会社、株式会社御木本装身具)


関連項目

ミキモト

ミキモト真珠島

真珠


外部リンク

ミキモト真珠島

御木本幸吉生誕150年 公式サイト
カテゴリ: 真珠 | 日本の実業家 | 日本の発明家 | 三重県出身の人物 | 1858年生 | 1954年没

更新日時:2008年8月7日(木)13:15
取得日時:2008/08/25 02:03


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki