幸吉は単に真珠の養殖と真珠貝の養殖に成功しただけでなく、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。なお幸吉の一人息子・隆三(1893年 - 1971年)は一高時代に英国の思想家ジョン・ラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、その後昭和12年(1937年)に破産、禁治産者申請へと至るが、隆三の人生を辿るだけでも壮絶なドラマである。幸吉の心痛の思い、いかばかりかの感であるが、結果的に幸吉が96歳まで長寿を保ったという事実が長男の事件と第二次世界大戦の2つの大事件を克服し、ブランドを他家に取られず本家を世界周知のミキモトとして飛躍に至らしめたといえよう。
明治38年、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉に与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠で飾ってご覧に入れます」と大見得を切った。その際、幸吉の周囲の人間は大いに慌てたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。
また、第二次世界大戦後、様々な地を行幸した昭和天皇が幸吉の所を訪れた際に、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が人間宣言をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。
ミキモト編『御木本真珠発明100年史』 株式会社ミキモト 平成6年(1994年)7月出版(共同刊行者 株式会社御木本真珠島、御木本製薬株式会社、株式会社御木本装身具)
外部リンク
⇒ミキモト真珠島
⇒御木本幸吉生誕150年 公式サイト
カテゴリ: 真珠 | 日本の実業家 | 日本の発明家 | 三重県出身の人物 | 1858年生 | 1954年没
更新日時:2008年8月31日(日)09:01
取得日時:2008/10/05 18:32