御木本幸吉
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アコヤ貝の養殖

世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入が得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して明治21年(1888年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を明治23年(1890年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。


外国での養殖例

中国の仏像真珠(胡州珍珠)にみられるように古来、真珠を産する貝の中に鉛などの異物を入れ、人工的に貝付き真珠を作り出す試みは中国や欧州各地で行われていた。しかし、幸吉の情熱と周囲の協力体制という点での取り組みが結果的に勝っていた事になる。


養殖実験開始

明治23年(1890年)、神明浦と相島(おじま、現在の真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。

明治24年(1891年)、農商務省技手・山本由方による厳島広島県)での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。

明治25年(1892年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。


特許と身近な縁者の協力

明治26年(1893年7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。

明治29年(1896年1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめ32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の実兄・久米楠太郎、幸吉の実弟(二男)・御木本松助夫妻、幸吉の実弟(三男)・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、明治30年(1897年)秋には幸吉の実弟(五男)・斎藤信吉、明治32年(1899年)には竹内久吉、(猪野三平の子息)猪野若造、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。その他桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉、見瀬辰平、藤田輔世、藤田昌世らが加わる。西川(1874年 - 1909年)は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていた。しかし明治42年(1909年)6月、惜しくも35歳の若さで不帰の人となった。

その後の特許をたどると、
半円真珠から真円真珠に到る特許

特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)

アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)

大正13年(1924年・42歳)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)


銀座に出店

明治31年(1899年)、東京銀座に御木本真珠店を開設する。


真円真珠

明治41年(1908年)、真円真珠の特許権を取得。


人々の協力

明治29年(1896年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳の若さで没した。

志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。

親友の四日市万古焼商人だった川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。

他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は明治8年(1875年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを勤め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。


量産体制

大正7年(1918年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが大正10年(1921年)、ヨーロッパの宝石商は天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定する騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH.L.ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。大正13年(1924年5月24日パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。昭和2年(1927年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界で認める宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki