日本の律令制は、概して7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施された。そのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。
6世紀末期から7世紀初頭の推古天皇の時代に、律令制を指向する動きがあったとする見解がある。確にこの時期に冠位十二階の制定などの国制改革が行われたが、政治・社会体制を大きく変革するものではなかった。当時の朝廷は、隋との交渉の中で、律令制とその基本理念を知る機会はあった(622年に帰国した遣隋使の恵日らが推古天皇に唐の律令制について報告している)が、それを実行に移す能力は未だ朝廷に備わっていなかった。
646年から孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる大化の改新において、4つの施策方針が示された。それらは、中国律令制の強い影響を受けたものである。その内容は
豪族らの私有地を廃止すること
中央による統一的な地方統治制度を創設すること
戸籍・計帳・班田収授法を制定すること
租税制度を再編成すること
であった。20世紀中後期頃までは、大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていたが、20世紀後期頃から、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、必ずしも律令制史上の画期とは見なされなくなってきた。例えば、改新の第一の方針は公地公民制を確立したものとして評価されてきたが、これは王土王民の理念を宣言したのみに過ぎず、改新時に公地公民制という制度は構築されなかったとする見解も有力となりつつある。大化の改新は日本書紀に描かれるほどの画期的な改革ではなく、その後、改革への動きは停滞したとする見解が広範な支持を集めているのである。
律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。660年の百済滅亡と、663年の百済復興戦争(白村江の戦い)での敗北により、唐・新羅との対立関係が決定的に悪化し、倭国朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機感を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった。この時期に編纂されたとされる近江令は、国制改革を進めていく個別法令群の総称だったと考えられている。天智天皇による国制改革は全国に及んでおり、令制国と呼ばれる地方行政区画が形成されたのもこの時期である。こうして、地方での人民支配が次第に深化していき、670年頃になると地方支配の浸透を背景に、日本史上最初の戸籍とされる庚午年籍が作成された。戸籍は、律令制の諸制度を実施するために必要な要素であり、最初の戸籍がこの時期に作成されているという事実は、班田収授制が大化の改新時に始まったのではなく、天智天皇以後に始まったことの反映であるとする見解が有力となっている。
天智天皇の死後、壬申の乱を経て政権を奪取した天武天皇は、軍事を政治の最優先項目に置き、専制的な政治を推進していった。主要な政治ポストには従来の豪族ではなく諸皇子をあてて、その下で働く官僚たちの登用・考課・選叙など官人統制に関する法令を整備していった。こうした流れは、体系的な律令法典の制定へと帰着することになり、681年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発出した。天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、689年の持統天皇の時代に令が完成・施行された。これが飛鳥浄御原令である。この令は、律令制の本格施行ではなく先駆的に施行したものと考えられている。令原文が現存していないので、詳細は判明していないが、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格がこの令により形成されたと考えられている。
その後の701年に、大宝律令が制定・施行された。大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められており、律令施行とほぼ同時に、日本という国号と最初の制度的元号(大宝)が正式に定められた。さらに、大宝律令の制定後まもなく、空前規模の都城である平城京が、9年の歳月で建設された。これらの事実は、律令施行があたかも一つの王朝の創始(または国家建設)に擬せられていたことを表している。律令編纂に中心的な役割を果たした藤原不比等は、その後、大納言・右大臣へ昇進し、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。
律令制定に伴って、正史日本書紀の編纂、風土記の撰上、度量衡の制定、銭貨の鋳造などが行われた。これらは律令に直接の根拠を持つものではないが、いずれも律令制に不可欠な構成要素であった。
大宝律令は、唐の永徽律令(えいき-、651年制定)をもとに作られた。しかし、唐律令には、日本の社会情勢と適合しない箇所もあったため、多くの箇所で日本の国情に合わせた改変がなされている。大宝律令制定後も、日本の国情に適合させるよう律令の撰修が続けられ、その成果が養老律令としてまとめられ、757年に施行された。
日本の律令制の最盛期は、8世紀初頭から8世紀中期・後期頃までとされている。律令制が最も法令に則って実施されていたのが、この時期である。ただし、この最盛期において律令制がどの程度まで徹底して施行されていたかについては議論が分かれている。全国どこでも一律に律令通りの施政がなされることが律令制の理想ではあったが、それが貫徹されていたとは考えられていない。律令の規定がかなりの程度で徹底実施されていたとする説や、依然として慣習法による統治もなされていたとする説など、様々な意見が出されている。
8世紀末頃になると、実効性が薄れて来た制度や、実際に運用されなくなった制度が見られるようになってきた。これら制度の放置は、律令政府に対して財政的かつ人的な負担として重くのしかかっていた。そのため、当時の桓武天皇はこうした制度を廃止し、別個の簡素かつ実効的な制度に置換するという大規模な行政改革を行った。この改革は、律令制の再興を意図したものだったが、これにより律令制は大きく変質することとなった。桓武天皇の時代には、長岡京・平安京への遷都や、対蝦夷戦争への積極的な遂行が実施された。これらは、従来とは異質の統治体制を築こうとするものであり、律令制の再編成とする見解が多数派だが、桓武天皇の時代期をもって、律令制の終焉とする論者もいる。
その後、9世紀の前期から中期にかけて、律令制を再整備しようとする動きが活発となる。律令の修正法である格(きゃく)と律令格の施行細則である式(しき)が、大宝律令の施行以後、多く残されていたが、820年にそれらを集成した弘仁格式が編纂された。更に830年には、天長格式が撰修され、834年には令の官製逐条解説である『令義解』(りょうのぎげ)が施行された。これらは、律令制の実質を維持していこうとする意思の表れだった。しかし、律令制の弛緩、換言すれば別の統治体制への移行は、時代を追うたびに進展し、特に班田制の崩壊が著しかった。こうした状況下で、870年前後に貞観格式が編纂・頒布されるとともに、868年には、律令条文の多様な解釈を集成した私的律令解説本の『令集解』(りょうのしゅうげ)が惟宗直本により記された。