日本の律令制においては、人民統治の基盤として、戸籍(世帯=戸ごとに人民を詳細に記載登録したもの)と計帳(調・庸の税を徴収するための台帳)が作成され、毎年更新されていた。
国は、戸籍を基にして、一定の資格を持つ者に対し一律に同じ面積の田を口分田として班給し、その者が死ねば口分田を収公していた。これを班田収授制や班田制という。律令では、口分田は公地ではなく私地と規定されていた。(これにより従来の公地公民の概念は否定されつつある。)
口分田の他の田には、五位以上の者へ班給された位田、天皇から特別に与えられた賜田、特に功績を残した者に与えられた功田、官職に応じて班給された職田、仏教寺院の維持運営にあてられた寺田、神社の維持運営にあてられた神田、以上の班給の残りの乗田があった。また、宅地と園地も班給の対象とされたが、収公はされず、自由に売買できた。
田地の班給を受けた者は、原則として田租を納税する義務を負ったが、中には納付義務が免除される田地もあった。田租の賦課対象となる田地を輸租田といい、田租が免除された田地を不輸租田というが、口分田・位田・賜田・功田・郡司への職田が輸租田とされ、郡司以外の職田・寺田・神田のみが不輸租とされた。田租は国衙に納付され、国衙行政の財源となった。
当時、出挙という貸借制度があったが、国司や郡司は田租の稲を半ば強制的に百姓へ貸し付けて、利子の稲を得ていた。これは公出挙または正税と呼ばれ、田租と並んで地方の貴重な財源となった。
百姓は、田租以外にも調・庸などを負担する義務が課せられていた。
調は、男性に賦課された物納税であり、絹や布、塩、紙、染料、海草、油などの地域の特産品が納められた。調は中央の財源であり、直接、宮都に納付することとされていた。そのため、百姓の中から運搬する者(運脚という)が選ばれ、都まで運送していった。この時期に、初源的な運送業が発生していたとする見解もある。
庸は、元来、都での労役に従事することだったが、その代替として布、米、塩などを中央へ納付する内容となっていた。
雑徭は、国司の命に従って、国内の土木工事や政府機関での雑用に従事する労役義務である。中国では雑徭とは別に差科と呼ばれる労役義務が存在しており、差科に対する雑徭の位置付けについては諸説がある。また、労役には仕丁と雇役と呼ばれるものもあった。(詳細はそれぞれの項目を参照のこと)
以上の租税負担のほか、百姓は兵役の義務も負っていた。律令制における軍事制度の基本は軍団制だった。成年男性の中から徴兵され、3?4郡ごとに置かれた軍団に兵士として配属された。軍団で訓練を受けた兵士は、中央たる畿内へ配転されて衛士として1年間、王城周辺の警備に当たった。また、関東の兵士は、北九州に防人として3年間配属され、沿岸防備などに従事した。
班田制の詳細については、班田収授法の項を参照。
戸籍・計帳の詳細については、古代の戸籍制度の項を参照。
租・庸・調の詳細については、租庸調の項を参照。
軍事制度の詳細については、軍団 (古代日本)、防人の項を参照。
日本の律令制における身分は、良民と賎民に大別される。良民は、高級官僚である貴族を初め、下級官人、一般の百姓(公民と呼ばれることもあった)、雑色人(品部・雑戸という工芸技術を持つ半自由民)があった。賎民は五色の賎と言われ、陵戸(天皇・皇族の陵墓を代々守る家系)、官戸(諸官庁に属し公用に従事)、公奴婢(官有の奴隷)、家人(貴族や有力者に属し雑用に従事)、私奴婢(私有の奴隷)があった。
賎民のうち、公奴婢と私奴婢は売買の対象とされるなど、奴隷として位置づけられていた。このように、律令制下では奴隷制が存在していた。
律令制の確立を以って、古代日本の国家建設がひとまず完了したと考えられている。ただし、その国家建設は内発的なものではなく、唐を中心とする東アジアの国際関係の緊張を背景とする外発的な要因を主としていた。そのため、国家建設の基盤となった律令制も、中国から移入されたものであり、日本独自の改変も多々あるが、基本的には中国の制度を日本で再現しようとする試みであった。
日本の律令制については、天皇による独断的な政治体制とする見解と、畿内の貴族らによる貴族共和的な政治体制とする見解が対立していた。しかし、その後、天皇と貴族が相互に依存しながら運営して行く政治体制とする見解が出され、有力となっている。
日本の律令制社会は、戦前から戦後のある時期にかけて、奴隷が存在する点から奴隷制社会と目されていた。これは、人類の歴史を原始社会→奴隷制社会→農奴制社会→…と類型化したヨーロッパ的な発展史観、なかんづくカール・マルクスの唯物史観に準拠した考え方であった。特に、戦後の歴史学に強い影響を及ぼした唯物史観は、発展史観の度合いをさらに強め、古代アジアの社会はアジア的生産様式の中で総体的奴隷制度が行われたと考えていた。当時の日本史学界の大きなテーマは、日本の歴史をいかにヨーロッパ的史観へ当てはめていくか、というものであり、そうした観点から律令制への評価が行われていたのである。
さらに、律令制に於ける人民統治の実態は単なる人民圧迫に基づいた搾取構造でしかなかった、という考えも存在している。実際、人民の負担が増加傾向にあるにもかかわらず、肝心の支配層、すなわち貴族階級は贅沢を続け政治から遠ざかっていくようになる、と教えられる時期も有った。摂関政治が軌道に乗り出した時期であった。だが、この見解も日本の律令制社会をヨーロッパ的な発展史観に当て嵌め、欧米列強がかつて行った植民地支配の実態と重ね合わせているだけで、本末転倒な見方とする意見が現在では多くなってきている。実際、墾田永年私財法は荘園制を発生させ律令制を崩壊に追いやった元凶のように論じられていたが、実態は人民の生活保障のために執られた土地政策の一環で、律令を否定するどころか律令の法目的を補強するものであった事が判明している。また、防人制も人民負担の軽減から健児制に取って代わられ、農民徴用も九州地方出身者のみに限定している。
律令制社会の実態を観察すると、本質的な奴隷身分は奴婢などの賎民に限られており、社会全体に奴隷制が存在していなかったことが明らかになっている。このことから、「律令制=奴隷制」、「律令制=独裁制に基づく搾取制」という考えが否定されていき、代わって百姓を隷属農民として見る隷農制という概念が提示されるようになった。こうした例に見られるように、律令制に対する評価は、徐々にヨーロッパ的な視座ではなく、東アジア的な視座からの再評価が行われるようになっている。
関連書
池田温 編 『日中律令制の諸相』 東方書店 ISBN 4-497-20205-4
大津透 『日唐律令制の財政構造』 岩波書店 ISBN 4-00-024242-3
武光誠 『律令制成立過程の研究』 雄山閣出版 ISBN 4639015488