彗星
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旧方式符号

1994年までの彗星の系統的な符号の付け方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる仮符号が与えられた。例えばベネット彗星の仮符号は1969i で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する。彗星の軌道が確定すると、彗星には、近日点通過の年とローマ数字からなる確定符号が与えられた。ベネット彗星の確定符号は1970 II となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも言う。確定符号が付くと、仮符号は使われない。

彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に国際天文学連合は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。


新方式符号

符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にして付けられる。例えば、ヘール・ボップ彗星の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。
最初の「C/」は「Comet」を意味し、発見報告直後の全ての彗星にはこの符号が付けられる。発見報告後の観測により、周期彗星(なお、本節に限り、「周期彗星」を「公転周期200年以下または複数の近日点通過が観測された彗星」と定義する)だと分かった場合、記号は「P/」(Periodic) に変更される。周期彗星でない場合は「C/」のままである。また、消滅した、または、長期間観測されない周期彗星には「D/」、軌道を求めることができなかった彗星には「X/」を付ける。2006年7月現在、「D/」が付いた彗星は24個、「X/」が付いた彗星は54個ある。彗星と思われていた天体が小惑星だと分かった場合は「A/」、衛星だと分かった場合は「S/」を付ける。小惑星として発見された天体が過去の彗星と同定され「A/」がついた例はあるが(ブランペイン彗星)、「S/」に変更された天体はまだ無い。

「1995」は、発見が報告された年を表す。

「O」は発見が報告された時期を表す。1月前半(15日まで)が「A」、1月後半(16日から)が「B」、というように、1年を24に分けて表す。ただし、「I」は「J」や「1」と紛らわしいので飛ばし、「Z」は使わない。この規則は、小惑星と共通である。

「1」は、その時期の中での発見報告順を表す。ヘール・ボップ彗星は、1995年7月後半に発見が報告された最初の彗星であることが分かる。

彗星が分裂した場合、「-A」、「-B」などが末尾に付けられる。

2回目の回帰が観測された彗星、または遠日点でも観測できる彗星、あるいは4回のが観測されたケンタウルス族彗星には、「P/」(または「D/」)の前に公式通し番号が付けられる。例えば、スパール彗星が回帰して2005年に再発見されたときの符号は「171P/2005 R3」で、同時に、最初の発見は「P/1998 W1」から「171P/1998 W1」に変更された(再発見には別の符号が付くことに注意)。複数回の発見を区別する必要がないときは、「171P/Spahr」と表現される。2006年11月現在、182P/LONEOS まで番号が付けられている。

1994年以前の彗星にも、新方式符号が遡って付けられる。例えば、前述のベネット彗星の新方式符号は C/1969 Y1 となる。つまり、1994年以前の彗星は、符号が3つあるということになる。

なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)が付けられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字が付けられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された[1]


彗星の記録と信仰バイユーのタペストリーに描かれたハレー彗星 右上に記号化されたハレー彗星が見える。中世ヨーロッパにおいては彗星 (star with hair, stella crinita) は差し迫った不運を警告するものと捉えられていた。

彗星はしばしば王や高貴な人物の死や、大災害といった不吉なことの前兆と考えられ、昔の人はその出現を恐れた。で卜占を記した甲骨文などの古代の資料からは、人間が彗星の出現に数千年の昔から気づいていたことが分かる。彗星の出現を記録した有名な古記録として、1066年イングランドノルマン・コンクエストを記録した『バイユーのタペストリー』にハレー彗星が描かれていることが挙げられる。

彗星の出現についての信頼できる記録の中で最も古いものは、紀元前240年始皇帝がハレー彗星を見たとする記録である。不確かなものでは、紀元前2320年の古代バビロニアの記録がある。ヨーロッパでは、彗星は気象現象の一種だと考えられていたため古い記録はそう多くないが、中国や日本には多くの記録が残っている。中国では紀元前のハレー彗星の回帰が4回記録されており、日本でも684年のハレー彗星の回帰に関する記述が『日本書紀』にある。


彗星の研究の歴史


古代の観察と考察

歴史的に、彗星は不吉の象徴とされ、地球の住人に対する天からの攻撃であるとさえ解釈されてきた。『ギルガメシュ叙事詩』、『ヨハネの黙示録』といった権威書は「流れる星」に原因があるとし、『エノク書』では彗星や、ことによると火球に原因を求めた。

アリストテレスは、彼が著した最初の気象学の本『気象学』(Meteorologica) ⇒[5]で、彗星に対する、西洋の思想を2000年近くに渡って支配した考えを示した。彼は、彗星は惑星であるか、少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定した。その根拠は、惑星の動く範囲は黄道帯の中に限られるが、彗星は空のあらゆる所から現れるというものであった。その代わり、彼は彗星を大気の上層部で起こる現象だと捉え、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、流星や、オーロラ、そして天の川の原因にさえなっていると考えた。

その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。セネカは、彼の著書『自然研究』(Quaestiones naturales) において、彗星は空を規則的に動き、に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼は他の惑星が黄道帯の外に現れることが無いことを認めつつも、天球上のものに関する人間の知識は限られているので、惑星のような物体が空のあらゆる所に現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは16世紀のことであった。

1577年、明るい彗星が現れ、数ヶ月間肉眼で観察できた。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、彗星に測定可能な視差が無いことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki