弥生人
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地域勢力と大型墳丘墓の出現

時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。 首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。 弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。 近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。
吉備地域

瀬戸内地方のなかでも吉備と呼ばれる岡山県広島県東部の地域では、弥生時代後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市楯築墳丘墓(最大長約80メートル)である。この地域では首長の葬送儀礼には、特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用された。これらの土器は、吉備地方で発生し、美作備前備中備後の地域に分布し、その発達の中心は、備中南部の平野であった。そして、これらの地域の周辺地域では使用されていないのが特徴である。
山陰地域

中国山地の三次で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型の墳丘墓(大きなものは約45メートル×約35メートル)が現れる。これらは後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっている。出雲地域に存在する安来・西谷の両墳丘墓集積地には特殊器台形土器と特殊壺形土器し、出雲と吉備の両地域に同盟関係が生まれていたことを示していると考えられている。

これらの墓の特徴が寄り集まって後代の古墳前方後円墳など)の形成につながったとされている。

弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。 時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていった、と考えられる。 水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易をめぐる争いのために戦いが起こり時代が進行していった。近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。


人々の生活


道具類

弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器鉄器土器などに分けることができる。

石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。 打製石器は、石鏃スクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。 石材としてはサヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。

青銅器は大陸から北部九州に伝えられた。 北部九州を中心とする地域では銅矛銅剣銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。 北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。 一方銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。 この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。 弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できる。 一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられるが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。 また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになったが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。 このように、大型の青銅器は出現当初をのぞいてほとんどが祭祀に用いられるものであった。 このほかに鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)をのぞき、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。 青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末?中期前半期のものは主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。 中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。 平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。 一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられているが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。

鉄器の初現は弥生時代早期とされ、弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化し、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。 鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器として、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現し、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄族、ノミ状工具などの存在が知られる。 ただし、この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。

弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている (ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。

北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。 一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。 瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。

鉄器の生産は個々の集落それぞれでというよりは特定の集落で集中的に行われたと考えられる。従って、もっとも効率のよい利器である鉄器を入手するためには、大部分の人々は交易によるしか方法がなかった。 しかし、鉄器の流通についての研究はまだ十分には進んでいない。

土器は、弥生土器と呼ばれる、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。 縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。 器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。

土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki