弥生人
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また、の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されないこと[1]などの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつある(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられている)。

北部九州に現れた水田は、弥生時代の前3?2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀?紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。中期には、中央高地松本平千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかった。その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということがあげられる。 水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえる。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。 道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれた。 また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。 このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)がに朝貢し、の王であることを意味する金印を授けられた。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。

一方、南西諸島樺太北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。 併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史奄美諸島の歴史先島諸島の歴史も参照のこと。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。 また、3世紀は海退期であり、海が退いていきが干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。


時期区分

弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。

そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。ところが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。

そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。

その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。

また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I?)I?Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII?IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

最近になって、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきた。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる[2][3][4]。早期(先I期)前期(I期)中期(II?IV期)後期(V期)早期前半早期後半前期前半前期中葉前期後半中期前半中期中葉中期後半後期前半後期後半縄文
晩期弥生
早期弥生
前期弥生
中期弥生
後期弥生
終末前1000前900前800前700前600前500前400前300前200前1000100200

時期区分を視覚的にしてみたが、少しずれていることに注意。最上段はAMS法炭素年代、二段目は前期(黄)・中葉(緑)・後期(青)に等分し、三段目は従来の年代観、四段目は一世紀ごとの物差し。

弥生時代の開始年代 - AMS年代測定法の現状と可能性 -参照


政治


戦乱の時代?環濠集落と高地性集落?

弥生時代は、前代(縄文時代)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとされる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki