1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。
初名は丈太郎(じょうたろう)。信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅(「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力)ならざるべからず)から採って、旧制中学卒業直前のときに改名した。当時は改名が難しく1年間は僧籍に入る必要があったが、1年間寺に入ったということにしてもらった。
福岡市立大名小学校、福岡県立修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を卒業。当初は陸軍志望であったが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した。またこのころから、後に自らも社員となる玄洋社との関係が始まっている。
上京して第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学生時代から山座円次郎ら外交官の私邸に出入りし、1903年(明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じられている。大学卒業後1905年(明治38年)に外交官試験を受けるが英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備え、翌年には首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂、武者小路公共、林久治郎らがいる。
1907年(明治40年)、清国公使館付外交官補として北京に在勤、その後は三等書記官としてロンドンの在英大使館に赴任。5年後、本省の通商局第一課長となり第一次世界大戦後、中国への「対華21ヶ条要求」の条約作製に参加するものの最後通牒の形で出すことには強く反対した。1919年(大正8年)、ワシントンに赴任することになり、その際サンフランシスコに着くと外務省の役人として初めて日本人移民村の視察を行い、移民たちから歓迎を受ける。その後、新設された情報部の課長、次長を経て1923年(大正12年)、第2次山本権兵衛内閣発足にともない欧州局長となる。次の加藤高明内閣では国際協調を重んじる「幣原外交」のもとで欧州局長として対ソ関係の改善に取り組み、1925年(大正14年)の日ソ基本条約締結により国交回復にこぎつける。 当時、広田は党派を超え広く外部と交際しており「外務省には幣原、出淵、広田の3人の大臣がいる」と言われるほどであった。
1927年(昭和2年)、オランダ公使を拝命。1930年(昭和5年)から1932年(昭和7年)にかけて、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。当時は学歴立身出世の典型として知られた。着任後、満州事変が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。関東軍は永久占領の形でチチハルに居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。
1933年(昭和8年)9月14日、斎藤内閣の外務大臣に就任。これは内田康哉前外相の人選によるものである。このとき、各国の駐日大公使を招いて新任挨拶をした際、駐日米国大使ジョセフ・グルーの信頼を得る。斉藤内閣で5回にわたり開かれた五相会議では、強硬意見を唱える荒木貞夫陸相と大角岑生海相を相手によく渡り合い、陸軍の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。次の岡田内閣でも外相を留任。当時ソ連との間で懸案となっていた、東支鉄道買収交渉を妥結、条約化し、鉄道をめぐる紛争の種を取り除いた。また、ソ連との間で国境画定と紛争処理の2つの小委員会をもつ委員会を設けることを取り決め、のちに自身の内閣で国境紛争処理委員会として設置される。
1935年(昭和10年)に議会において広田は日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないことを確信しているものである」と発言した。この発言は蒋介石や汪兆銘からも評価された。その後、中国に対する外交姿勢は高圧的なものから融和的なものに改められ、治外法権の撤廃なども議論されるようになった。さらに在華日本代表部を公使から大使に昇格させた。これにより中国国民党政府は広田外交を徳とし大いに評価した。しかし、軍部は現地で中国側と衝突し中国側は日本の二重外交を非難し、協和外交は偽装ではないかと疑われるようになった。そのため広田は外務・陸・海の3大臣の了解事項として、以下の「広田の対華三原則」を決定した。1、支那側をして排日言動の徹底的取締りを行いかつ欧米依存より脱却すると共に対日親善政策を採用し、諸政策を現実に実行し、さらに具体的問題につき帝国と提携せしむること。2、支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策を罷めしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。3、外蒙等より来る赤化勢力の脅威が日満支三国の脅威たるに鑑み、支那側をして外蒙接壌方面において右脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむること。
これは一見すると日本側の一方的な要求のようだが対中外交の大枠を決定することにより、実質的に軍部を牽制するものであった。
また、軍の国防問題講演会や国体明徴講演会に対抗するため吉田茂ら待命の大公使に国内各地で外交問題講演会を開かせた。
二・二六事件の責任をとり岡田内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し初めに近衛に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため西園寺は広田弘毅を候補に挙げる。天皇は広田が総理になることについて西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身ではなく、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時はまだ本人自身よりも親類・縁者の関係が重視され、いわゆる毛並みのいい人が総理大臣に選ばれていた時代であった。これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。
西園寺は首相就任を引き受けさせるため近衛文麿と吉田茂(広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。