廣田弘毅
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内閣総理大臣


総理就任広田内閣(1936年(昭和11年)3月9日

二・二六事件の責任をとり岡田内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し初めに近衛に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため西園寺は広田弘毅を候補に挙げる。天皇は広田が総理になることについて西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身ではなく、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時はまだ本人自身よりも親類・縁者の関係が重視され、いわゆる毛並みのいい人が総理大臣に選ばれていた時代であった。これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。

西園寺は首相就任を引き受けさせるため近衛文麿と吉田茂(広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾し1936年(昭和11年)3月5日天皇から組閣大命が下る。この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意(第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。第三に財界に急激な変動を与えることのないように)の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。

組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南中島知久平である。吉田は欧米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し、小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり3月9日、広田内閣が成立した。


政策

就任後は二・二六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を寺内寿一に実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。

また粛軍と共に「庶政刷新」に取り組み、以下の広田内閣の七大国策・十四項目を決定した。1、国防の充実2、教育の刷新改善3、中央・地方を通じる税制の整備4、国民生活の安定(イ)災害防除対策、(ロ)保護施設の拡大、(ハ)農漁村経済の更生振興及び中小商工業の振興5、産業の統制(イ)電力の統制強化、(イ)液体燃料及び鉄鋼の自給、(ハ)繊維資源の確保、(ニ)貿易の助長及び統制、(ホ)航空及び海運事業の振興、(ヘ)邦人の海外発展援助6、対満重要国策の確立、移民政策及び投資の助長等7、行政機構の整備改善

具体的には義務教育期間を6年から8年へ延長、地方財政調整交付金制度の設立、発送電事業の国営化、母子保護法などの法案化を決定した。11月には日独防共協定を締結した。

また自ら天皇にも働きかけ、文化勲章を制定した。


内閣総辞職割腹問答
険しい表情で浜田議員に反駁する寺内陸相、奥が広田総理

1937年(昭和12年)1月、議会で浜田国松議員の「割腹問答」があるとこれに激怒した寺内寿一陸相が広田に衆議院解散を要求、広田は議会を解散するつもりがなかったため閣内不統一を理由に内閣総辞職を行なった。

広田の後任として組閣大命を受けたのは宇垣一成であったが、軍部が反対し流産。替わって林銑十郎に組閣大命が下り、2月2日に林内閣が成立した。


辞職後

しばらくは鵠沼の別荘で恩給生活を送る。その後、第一次近衛内閣の外務大臣に就任。日中戦争盧溝橋事件)勃発に際しては不拡大方針を主張し現地解決を目指した。閣議で不拡大方針が放棄された後も有田八郎元外相を北京に派遣して国民党政府との交渉の糸口を探らせ、また駐日ドイツ大使ディルクセンを介して蒋介石に日中戦争の平和的解決を働きかけるなど平和外交に努めた。この頃、上海でのヒューゲッセン事件、揚子江のパネー号事件、蕪湖のレディバード号事件に善処し、英国大使・クレーギーと米国大使・グルーから高く評価された。また企画院による総理直属の対華中央機関である対支局設置構想に外交の一元主義を破壊するとして反対した。また元首相として重臣会議に出席、勅選の貴族院議員にもなった。米内光政内閣では請われて内閣参議となった。第二次世界大戦太平洋戦争)中は東郷茂徳石黒忠篤とともに院内会派無所属倶楽部を組織して東條内閣大政翼賛会と対抗した。

戦争末期の1945年(昭和20年)6月にソ連を通じた和平交渉を探っていた政府の意を受けて、箱根・強羅に疎開していたソ連大使ヤコブ・マリクと非公式の接触を図る。広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたがその意図はソ連側に見抜かれており、政府側が期待した返答を得ることはできなかった。


A級戦犯


東京裁判ウィリアム・ウェブ裁判長から死刑宣告を聞かされる広田

大戦終結後、進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。巣鴨プリズンに収容された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、極東国際軍事裁判の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った[1]。この中で国際検察局側は、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活した点を重視した。広田は後者については「この決定が現在の情勢を招いたとは思わない」と回答している。ただし、「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い。そうなると外務大臣などほとんど無力化されてしまう」と統帥権の独立を盾に政府に圧力をかける軍への対応に苦慮したことも率直に明かしている。日中戦争当時、追加派兵の予算を認めた点を「陸軍の活動を承認したことにならないか」と問われたことには「事実はその通り」とも答えた。


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