江戸時代は寺子屋で町民の子弟を教育していたが、ここには年齢による学年は存在せず、師匠が生徒の進度にあわせて教育するという形態を取っていた。1868年(明治1年)の明治維新の影響で、1872年(明治5年)に学制が公布されて近代的な学校制度が始まり、学齢児童の就学が行なわれた。学制下の下等小学と上等小学では、等級制という半年間のレベル別学級に分けた進度別編成が行なわれ、どちらの小学校も8等級あり修業年限は4年間であった。等級制のもとでは、月ごとの小試験、期末の中試験(進級試験)、学校末の大試験(卒業試験)によって厳密な進級・卒業判定がなされた。当時のこの風景は今でも季語に残っており、「大試験 学年試験 進級試験 卒業試験 受験 及第 落第」が春の季語となっている。また飛び級も可能であったため、進級試験の際に数段階進級した生徒もおり、例えば夏目漱石は2回(学年制に直せば1年になる)の飛び級経験がある(ただしその後落第した)。また小学校入学年齢の下限は一応存在したが、厳密に守られていたわけではなく、寺田寅彦のように1年程度早期に入学する例もあった。
当時の学校は、同じ等級に属していても年齢はかなり隔たりがあった。一例を挙げれば、1877年の大分県の下等小学第八級(現在の小学1年前半の時期に相当)には2万2千人が在籍していたが、在学年齢は3歳6ヶ月から19歳2ヶ月までであった。また下等小学第二級(現在の小学4年前半の時期に相当)では540人が在籍していたが、年齢は8歳1ヶ月から18歳7ヶ月であった。このように、現代では幼稚園から大学に通っていてもおかしくない年齢層の人が同じ学級で学んでいたのである。勿論ながら、中学校や専門学校ではさらに年齢はばらばらだった。このように、年齢に縛られない明確な課程主義に基づく制度であった。
しかしながら、すぐに進級不可能な児童が下級に蓄積されていく一方であり、教員数などの面で教育に困難をきたしてしまった。たとえば、明治8年の下等小学では、最初級である第八級に在学している児童が65%で、第七級に在学している児童が17%であり、現在の一年生に相当するこの二つの等級の児童が82%と飛躍的に多く、上の等級に上っていくに連れて急激に減少している。このように、初級をずっと繰り返して4年間過ぎてしまうという例がかなりあった。また上等小学にいたってはわずか0.1%ほどであり、これは明治19年になっても0.8%でしかなく、ごくわずかの児童しか通えなかった。この原因としては、以下のものがあげられる。
本来、等級制は1等級当たり教員一人が担当することを前提とした形態だったが、実際には1校(8等級)に正教員が1人だけしかおらず、代用教員などを含めても3名程度しかいないというような例が多く、教員の質量の不足のため合級授業(複式学級)とせざるをえなかったこと
当時は統計上2.27%程度存在する知的障害者などの存在にはあまり注目されておらず、特殊学級もなく、特別支援教育の考え方もなかったこと
年少者の労働が多く、また急速な学校制度への反発のため、就学率が1873年(明治6年)には28.1%、1885年(明治18年)には49.4%(ただし欠席者や学齢超過者を除いた実質就学率は1873年15.1%、1885年30.5%である)と低く、欠席数も多かったために十分に授業を受けられないという環境だったこと
1学級の定員が80人程度であり、現代の40人定員の2倍であったにもかかわらず、教室は現在より少し狭かったという過密状態だったこと
下等小学第七級(現在の小学1年後半の時期に相当)の書き取り試験の問題に「茄子、箱、寒暖計、鶴、単衣」のような漢字が出されるなど、進級試験の難易度が高かったこと
このように社会的に教育環境が整っていなかったため、一定の課程を修めることを進級の前提とする方式では破綻をきたしてしまったのである。開智学校のような近代的建築で有名な学校は、政府が特に力を入れたモデルスクールであり、大部分の小学校は劣悪な環境であった。こうした問題に対する対策として、徐々に年齢主義も取り入れられるようになっていった。また、落第を繰り返す児童のうち少なからぬ者が障害児であったとされているが、そういった児童に対する教育の場として1890年に松本尋常小学校では落第生学級が設置された(日本初の特殊学級)。
1885年(明治18年)には、これまで6ヶ月だった小学校の1等級の期間が1年に変更され、現在の学年に近い形となった。また、1891年(明治24年)には学年という概念が用いられるようになり、等級制から学年制に移り変わりはじめた。そうして1900年(明治33年)の第三次小学校令では、「試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査」と定められ、反対意見もあったが小学校における次学年への進級試験や卒業試験が廃止された。1925年になると、旧制中学校の入学者のうち大体13歳(現役)である尋常小学校卒業者が50%を上回り、学年差=年齢差という形態に近づいていった。難関中学校は浪人が多かったが、そうでない学校は現役生が多かったため、そういった学校ほど学年内の年齢差は少なかった。また、師範学校においては一般入試よりも推薦入学のほうが多かったため、旧制中学よりも年齢差は少なかったとされる。こうして、次第に年齢主義的な運用に近づいて行き、また実際に年齢差が縮小して行ったため、学校においても長幼の序が重んじられるようになり、年下の者が年上の者を追い越すことが不敬とされ、徐々に年齢階級的な意識も広まってきた。そのため、この時代あたりから学年差による「先輩・後輩」関係が現れるようになったとされる。一方、飛び級(飛び入学)については、五年制中学校を四年修了した段階で上級学校に進学できる四修などで、ある程度は認められていた。(不破哲三などが体験者)。
1945年の太平洋戦争の敗戦を受けて、1947年に学制改革が行なわれた。これによって義務教育年限は9年間となり、年齢相当学年(後述)からの飛び級は禁止された。終戦からしばらくの間は、小中学校は基本的には年齢主義であるものの、貧困から学齢を過ぎて就学する人、学齢期でも周囲の児童より年齢が高い児童なども多く、欠席日数などによる原級留置などもあり、飛び級禁止になった以外は課程主義の要素も残った。しかし徐々に同一学年同一年齢になってゆく。もっとも、小中学校における原級留置については、後述のように統計は存在しないので数値的には判断不能であるが、時代を下るにつれて減ってきているといわれる。一方、就学猶予と就学免除については、統計では1970年代を境として著しく減少しているが、これは小学校入学者のうちの就学猶予経験者が激減したということを表しているわけではなく、1979年に養護学校が義務教育学校となり、重度障害児も全員入学できる制度になったことが大きく影響している。