逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝(尾張藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命されるが、幕臣・勝海舟との会談で長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は、開戦回避を模索。長州藩内でも四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。
藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中小笠原長行(唐津藩世子)・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫(神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭米連合艦隊が兵庫沖に迫った。摂海防禦指揮徳川慶喜は、いまだに条約への勅許が得られていないのが原因と考え、老中らに勅許工作と外国艦隊との交渉をおこなわせるが、独断で兵庫開港を決めた阿部正外・松前崇広らに対し朝廷から老中罷免の令が出される異常事態となり、幕府は慶喜への疑念を強める。慶喜は条約勅許・兵庫開港問題を巡って在京の諸藩士を集めて世論をまとめ、朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。
こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、逆に長州との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、両藩の接近が図られる。逆賊となり表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年(1866年)正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。
幕府は同年2月に第二次長州征伐を発令。6月に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、7月20日家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は自ら親征の意志を見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣・井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。
家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいた。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受ける。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が践祚した。
翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。
こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていた。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に倒幕の密勅が出されるにいたる。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなった。ここに江戸幕府による政権は名目上終了する。
しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。12月9日、王政復古の大号令が下され、従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのである。会議に参加した山内容堂は猛反対するが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。
なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。
江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始した。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となる。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。