幕末
出会い最短記録!!
B分で即アポHも可

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


幕末政治史の概要


条約締結と将軍継嗣問題(1853年〜1858年)

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。老中首座の阿部正弘備後福山藩主)は、海防参与徳川斉昭水戸藩主)らや、松平慶永越前藩主、のち春嶽)・島津斉彬薩摩藩主)ら親藩外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動のなか、将軍徳川家慶が死去。子の家定が13代将軍に就任する。

安政元年(1854年正月に再来したペリー艦隊は、重ねて開国を要求。全権の林復斎らとの交渉により、日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。同年、ロシア帝国プチャーチン艦隊との間でも川路聖謨らの交渉により日露和親条約が締結された。日米和親条約では、薪水の給与のための下田箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、米国はハリスを下田に派遣する。ハリスの目的は通商条約の締結であった。

阿部死後、老中首座となった堀田正睦は、ハリスの圧力や第二次アヘン戦争におけるの敗北などの情勢から通商条約締結は不可避と考え、孝明天皇勅許を求めるべく、京都において関白九条尚忠を通じて工作をおこなわせた。しかし、孝明天皇は撫恤のための薪水給与は認めていたが、通商条約や異国人の入国には強く反対しており、また岩倉具視ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため(→廷臣八十八卿列参事件)、堀田の工作にもかかわらず勅許は得られなかった。

一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。紀州藩徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主徳川慶喜を推す一橋派が激しく対立し、条約問題とともに江戸・京都での政治工作が熾烈化した(将軍継嗣問題)。一橋派では橋本左内(越前藩士)・西郷隆盛(薩摩藩士)、南紀派では長野義言彦根藩士)ら下級武士がこれら工作に活躍した。また島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。


安政の大獄と桜田門外の変(1858年〜1860年)

安政5年(1858年)4月大老に就任した井伊直弼彦根藩主)は、条約問題と将軍継嗣問題を強権的に一気に解決をはかる。すなわち大老就任直後の6月、勅許の降りないまま井上清直岩瀬忠震らにハリスとの間で日米修好通商条約を締結させた。領事裁判権を認め、関税自主権を喪失し、かつ片務的最恵国待遇を課した拙速な不平等条約であり、同様な条約がイギリスフランスオランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。また将軍職については、5月紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は10月)。

こうした井伊の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝尾張藩主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に井伊によって謹慎処分を受けることとなった。また、京都を中心に活躍した一橋派各藩の工作員らも井伊の指示を受けて、老中間部詮勝鯖江藩主)らが取り締まりを行った。これにより、橋本左内・梅田雲浜頼三樹三郎らが処刑され、また長州藩)で私塾・松下村塾を開いていた吉田松陰なども、間部詮勝の暗殺を企てたかどで処刑された。これら一連の政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。特に幕府・関白を介さず、朝廷から直接水戸藩へ勅書が出された件(→戊午の密勅)は井伊ら幕閣の警戒感を強め、水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。

安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、万延元年3月3日1860年3月29日)、江戸城登城の途中の井伊を桜田門の外で襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。



■可愛い娘探セル■
■18歳以上「入口」■

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki