桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。
兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、亡父・桓武天皇の意向が働いたといわれている。
このような事情から即位後に甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌年810年に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか今度はかねてから臣籍降下を望んでいた異母弟の大伴親王(淳和天皇)を強引に皇太弟に立ててしまった(これが承和の変の遠因となる)。
ともあれ、以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期(弘仁文化)を過ごした。818年、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。だが、当時は農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、817年より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。820年には当時朝廷内で大きな権勢を誇っていた藤原氏の有力者4人(藤原内麻呂・冬嗣親子、藤原緒嗣、藤原園人)が揃って封戸を返上(計15,000戸)している(更に緒嗣は淳和天皇時代の825年に2,000戸を追加返上した)。また、最末期には大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。
823年、財政上の問題を理由(上皇が2人では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。
漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。皇子皇女多数。皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の子の一人。
陵墓は京都の嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り
后妃・皇子女
皇后:橘嘉智子(檀林皇后)(786-850) - 橘清友女
正良親王(仁明天皇)(810-850)
正子内親王(810-879) - 淳和天皇皇后
秀良親王(817-895)
秀子内親王(?-850)
俊子内親王(?-826)
芳子内親王(?-836)
妃:高津内親王(?-841) - 桓武天皇皇女
業良親王(?-868)
業子内親王(?-815)
妃:多治比高子(787-825) - 多治比氏守女
夫人:藤原緒夏(?-855) - 藤原内麻呂女
女御:百済王慶命(?-849) - 百済王教俊女
源善姫(814-?)
源定(816-863)
源鎮(824-881)
源若姫(?-?)
女御:百済王貴命(?-851)
忠良親王(819-876)
基子内親王(?-831)
女御:大原浄子(?-841) - 大原家継女
仁子内親王(?-889) - 伊勢斎宮
更衣:飯高宅刀自
源常(812-854)
源明(814-853)
宮人:交野女王 - 山口王女
有智子内親王(807-847) - 賀茂斎院
宮人:笠継子- 笠縫女
源生(821-872)
宮人:大原全子
源融(823-895)
源勤(824-881)
女嬬:当麻治田麻呂女
源潔姫(809-856) - 藤原良房室
源全姫(812-882) - 尚侍
宮人:広井弟名女
源信(810-868)
宮人:上毛野氏
源弘(812-863)
宮人:安倍楊津女
源寛(813-876)
宮人:布勢 武蔵子
源貞姫(810-880)
源端姫(?-876)
宮人:紀氏
源更姫
宮人:内蔵影子