岩田行雄は、船橋オートレース場を主戦場に、1980年後期より一線級で活躍している選手である。
配属となった船橋オートレース場は、「ミスター・オート」飯塚将光(9期)の独擅場が長らく続いていたが、その下で岩田行雄は研鑽を積む日々を送る。そして、主力の1級車2気筒がトライアンフからフジへ変わっていった頃、フジに乗り換えた岩田行雄はその名を一気に全国区に知らしめた。
1989年から一気に開花、全日本選抜、日本選手権、オールスターと1993年までにSG3冠(当時は、特別競走の呼称)、また、全国GI格レースを数々と奪取し、船橋の強豪が全国どこででもタイトル奪取する実力であることを示して見せた。GI格獲得数は20回を越える歴代でも数少ない戦歴の持ち主でもあり、伊勢崎、飯塚では遠征先ながら特に強かった。
常に全力で立ち向かうレースぶりは多くの観衆を酔わせた。スタートで一気にカマし、全力で先行車の内に切れ込むレース運びは、岩田行雄の勝利への執念が観衆に伝わり、この選手ほど、「常に全力」、「手抜きなし」と認められている選手はいない。また、そのカマシスタートは、岩田行雄を語る上で避けることのできない最大の特徴ともいえる。
新エンジンセアに変わってから暫くは、かつての勢いを無くし、セアになかなか合わせられなかった。エンジン整備への執念も人一倍であり、孤軍奮闘寝る間も惜しんで整備にあたり続けることは珍しくない。
片平巧(19期)が頭角を現した1990年後半、島田信廣(11期)、阿久津正夫(13期)と共に、「船橋四天王」と呼ばれた。
「職業 : 一匹狼」、岩田行雄に与えられた船橋オートレース場の宣伝コピーである。しかし、これは単なる異名と言ってしまえるものではなく、ストイックな岩田行雄自身をそのまま表現したものとも言える。
岩田行雄は全オートレース選手の中でも稀な、「師匠」も「弟子」もいない選手である。そもそも、オートレース界における師弟関係は、選手養成所が誕生する以前の徒弟制度に由来しており、養成所が発足してからもこの徒弟制度は指導員制度になり変わり、師弟関係というものは脈々と続いている。岩田行雄は、そういった「縦」の関係を好ましく思っておらず、指導員の元を離れてからは師弟関係を持ったことが無い。
そのためか岩田行雄のライディングスタイルは他の選手とは一線を画しており、独特のクラウチングスタートは他に例をみない、あくまでも独学で身に付けていったものであろう。また、これが為、セアエンジンでの整備の苦労は人一倍であった。常に一人で整備にあたる岩田行雄は、グループで整備する他の選手に比べてやはり極端に情報量も少なく、特にそのセアでの整備の困難さは、「整備にあたると、ノイローゼになる。」を露呈するほど、長きに渡り追い込まれた。
独特のスタート力で一気に先頭集団争いに加わることも、またレース中盤より車がタレてきて、追い込みに遭いやすいレース運びであることも、岩田行雄が「一匹狼」であることの現れであろうか。
しかし、この生き様と全力で勝利に向かう闘志は、多くの特に男性ファンを魅了し、今なお観衆の期待を集める数少ない個性派選手である。
同期である田代祐一(15期、伊勢崎オートレース場所属)は、岩田行雄の最大のライバルといっていいだろう。共に全力でレースに挑む姿勢は、各々固定的なファン層を掴んでいる。その最大のライバルが、1988年全日本選抜において初代王者に輝き、初の特別競争(後のSG)優勝の冠を獲得した。先を越された岩田行雄にとって、特別競争奪取こそ田代祐一に再度肩を並べる唯一の方法だったであろう。
1989年3月21日、山陽オートレース場における第2回全日本選抜オートレースでその悲願は達成される。田代祐一の特別競争獲得から一年、今度は岩田行雄が、その栄冠に輝いた。優勝戦後のインタビューで、レース後の一服を入れた岩田行雄が、潤む眼を隠すように「煙草のけむりが眼に染みる。」と嘯(うそぶ)いたことは、有名である。
主な戦歴
SG戦歴
第2回全日本選抜オートレース(山陽)
第23回日本選手権オートレース(伊勢崎)
第12回オールスターオートレース(伊勢崎)
GI戦歴
GI優勝 21回 (1997年長野五輪協賛レース優勝、トップスターカップ優勝2回を含む。飯塚将光に次ぐ歴代第二位)
関連項目
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更新日時:2008年8月26日(火)17:49
取得日時:2008/10/08 21:39