気候区分は北部および西部の山岳地が日本海側気候東北・北陸型気候区に属すが、その他は太平洋側気候三陸型気候区に属する。沿岸部は夏は涼しく冬は内陸ほど寒くないが、北上盆地は内陸性気候であり、夏は暑く冬は寒い(→東北地方#気候)。
県内全域が豪雪地帯であり冬には県全域に雪が降るが、積雪量には地域差が大きい。西和賀町は積雪量がかなり多く、特別豪雪地帯に指定されている。奥羽山脈では、積雪量が多く雪質もいいため、いくつかのスキー場でスキーやスノーボードの国際大会や国内大会が開かれることが多い。
太平洋側の盆地である北上盆地は、冬季の西高東低の気圧配置になると奥羽山脈が「壁」の役割をはたして晴天になる場合も多い。そのため、放射冷却によって早朝の最低気温がかなり低くなる。対して、降雪時や曇天の場合は気温が下がりづらい。北上盆地に位置する盛岡市は、このような放射冷却の影響がある脊梁山脈東側盆地の最北端都道府県庁所在地であるため、日本海側のため冬季は曇天が多く、放射冷却がおきづらい青森市や札幌市など、より北に位置する都道府県庁所在地よりも最低気温が下回る時が通常で、東北地方では勿論、日本の都道府県庁所在地で最寒都市である日が多い。
一方、北上盆地の夏は、フェーン現象の影響で、南にあり海洋性気候の傾向もある仙台市よりも気温が高いことがしばしばあるが、沿岸部は仙台市と同様の気候となることが多い。
古くは縄文時代より豊かな狩猟・漁労生活を実現した地だった。
また蝦夷の中心地で、北上川流域を日高見国とも呼ばれていた。平泉町・中尊寺の金色堂外観
8世紀末の38年戦争では胆沢にアテルイが現れて朝廷軍を苦しめるが、征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂によって滅ぼされた。その後朝廷の勢力下に置かれ、蝦夷と呼ばれた人々は多くが全国に強制移住させられた。この後一部が俘囚と化し、11世紀までに俘囚長の安倍氏が半独立の勢力を築いた。安倍氏は前九年の役で源頼義の率いるヤマト朝廷軍になびいた秋田仙北の俘囚主清原氏によって滅ぼされた。その清原氏も一族の内紛から後三年の役で滅び、安倍氏の血を引く奥州藤原氏が東北地方を掌握、豊かな産金をもとに仏教を基盤とする地域支配を実現、その平泉時代を築いた。
鎌倉時代ごろには甲斐源氏の一派を称する南部氏が八戸周辺に移住し、今の青森県から岩手県北及び秋田県鹿角地方にまで勢力を伸ばした。県央部では斯波氏、稗貫氏、阿曽沼氏、和賀氏などが割拠し、県南部は葛西氏、留守氏が有力だったが、次第に福島県伊達郡に根城をおく伊達氏の勢力が浸透し、室町時代には葛西氏、留守氏は伊達の馬打ちとして事実上支配下におかれた。
これらの諸氏は伊達氏の内紛によって再び自立するが、伊達政宗の仙台移封を機会に葛西氏は滅亡、留守氏は伊達氏の一族として組み込まれた。同じ頃、安倍氏の末裔である一方井氏を母に持つ七戸南部氏の南部信直が勢力を拡大し、南部所属の頭領として振舞うようになると、これを認めない九戸南部氏の九戸政実と争い、豊臣秀吉の知遇を得た信直は秀吉軍を招きいれて政実を滅ぼした。南部氏諸家を統一した信直は盛岡に拠点を移し、勢力を確立した。(九戸政実の乱)
江戸時代には、県の南部は概ね仙台藩伊達氏に62万石、一関藩は田村氏、花巻には伊達氏城代が置かれ、北部は移封も無く盛岡藩南部氏によって20万石統治された。幕末に東北諸藩が奥羽越列藩同盟(北部政府)を作ると、現在の岩手県を支配していた南部藩・伊達藩はその中心となるが、結局敗れて明治政府によって占領された。
近代以降東北新幹線の路線図
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その後、盛岡県を岩手県に改称させられ、莫大な御用金を課せられたり、旧藩を分断する県域を設定され弱体化を図られるなど敗戦の屈辱を味わう。しかし、これをバネに多くの人材を輩出。原敬が内閣総理大臣に就任して薩長藩閥政治を終わらせ議会政治の定着をはかるなど、近代日本国家建設に多くの功があった。
戦後、1950〜1960年代には、山岳地帯のため交通の便が悪いことや、主な産業が新日本製鐵の釜石製鐵所位しかなく、所得水準が全国でも低いことから、自ら「日本のチベット」と呼び、政府の振興策を求めたこともあった。なおこの呼称は、1955年1月22日封切のニュース映画『カメラルポ 脚光あびる日本のチベット 岩手三陸』において用いられたことから定着したという。
その後、1964年にいわて花巻空港が開港、1982年に東北新幹線が開通して、首都圏からは約3時間、仙台からも1時間圏内(当時)となり、交通の便は改善された。