嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通の歌道の門流となるが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。
岩倉は早速、朝廷改革の意見書を政通に提出。朝廷の積立金を学習院の拡大・改革に使い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。公家社会は武家社会以上に激しい身分制社会であり(武家社会では有能な官僚であれば下級武士でも身分違いの役職に任じられた例もしばしばみられた)、家格のみで官位の昇進のスピードまで固定されていた。通常朝廷政務にあたっていたのも天皇・摂関・清華家など朝議出席メンバーのわずか十数名。岩倉をはじめとする大多数の下級公家には朝議に出席できる見込みはほとんどなかったから、まずはこの体制の打破が急務と考えた。これを聞いた政通はもっともというように頷いたが、即答は避けたという(『岩倉公実記』)。
安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しが、これに対して多くの公卿・公家から批判がなされた。
岩倉も条約調印に反対の立場であり、公家仲間の大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議する阻止行動を起こした。これを聞いた九条は病と称して参内を拒否したが、岩倉はあきらめず御所を出るとすぐに九条邸におもむき、九条との面会を申し込んだ。九条の家臣たちは病を理由に拒否したが、岩倉は面会できるまで動かなかったので、とうとう九条は折れて明日必ず返答すると家臣を通じて岩倉に伝え、岩倉を納得させた。岩倉がようやく九条邸を去ったときには午後10時を過ぎていたという。(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。
岩倉はこのとき従四位上侍従。厳しい身分制社会の公家社会においてこのような運動の中心人物になれるような立場の者ではない。しかも関白に対する抗議の列参など長い朝廷史にも類がないことである。それなのに88人も公卿を集めるというのは普通できることではない。
この列参計画の首謀者が本当に岩倉であるなら、岩倉はこの頃から相当に卓越したカリスマ性を発揮していたということになるだろう(ただ明治時代になってから久我建通が列参は自分が発案した計画であると証言している。久我の自称だけなので確証はないが)。
3月20日、堀田は小御所に呼ばれて孝明天皇に拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大夫で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。群臣とはもちろん岩倉具視ら反対派公卿のことであり、要するに岩倉たちの反対によって勅許は与えられないということであった。堀田は「もはや正気の沙汰とは思えない」と嘆きながら手ぶらで江戸へ引き上げることとなった。岩倉のはじめての政治運動であり、政治的勝利であった。
また列参から2日後の3月14日には政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出している。その内容は岩倉の当時の思想をうかがうことができ、興味深い。まず日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)であり、さらに条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策などを記している。しかし一方で単純攘夷は否定し、まず相手国の形成風習産物を知らねばならないとして欧米各国に使節の派遣を主張する。さらに米国は将来的には同盟国になる可能性があるなどともしている。またいずれにしても国内一致防御が必要として徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべきだとする。そのため伊達や島津などの外様雄藩と組んで幕府と対決する事態になってはならないとしている。この時点では薩摩藩への期待がほとんど見られなかったことがわかる。
ところが安政5年(1858年)6月19日、幕府大老・井伊直弼が天皇の勅許無きまま独断で日米修好通商条約を締結。27日に老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒した。しかも井伊は7月10日にオランダ、7月11日にロシア、7月18日にイギリスと次々と不平等条約を締結。さらに「勅許なき条約は無効である」と井伊に抗議していた前水戸藩主徳川斉昭や福井藩主松平慶永らが7月5日に謹慎処分に処された。孝明天皇は完全に激怒し、8月8日には水戸藩に対して井伊直弼を糾弾するよう勅令を下すにいたった(戊午の密勅)。朝廷と大名が幕府を介さずに直接政治的やり取りをするのは幕府の禁制であった。これを受けて井伊は勅令を出させた犯人として10月18日に水戸藩士鵜飼吉左衛門を打ち首にしたのをはじめ、尊攘派や一橋派に対する大弾圧安政の大獄を発動。
『岩倉公実記』によるとこの頃の岩倉具視は今のところ対象が武士階級にとどまっている安政の大獄が皇室や公家階級にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。そのため岩倉は幕府京都所司代酒井忠義や伏見奉行内藤正縄などと会談し、彼らに自分が理解する天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過であることを説いた。このあと公家からも隠居・蟄居処分にされるものが出ているので結果的には会談の成果はなかったということになるが、このとき岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りのままだった。
安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で対朝廷強硬派の井伊直弼が旧水戸藩士らの手により暗殺された後、安政の大獄は収束して再び朝廷との融和を目指す公武合体派が幕府内で盛り返した。4月12日には四老中連署で孝明天皇の妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁を希望する書簡が京都所司代より関白九条尚忠に提出された。九条から奏上をうけた孝明天皇はすでに有栖川宮熾仁親王に嫁がせることが決まっているとして拒否。さらに和宮自身も「蛮夷来集」する関東へは行きたくないと言っているなどとして条約破棄を暗に求める返事をした。
岩倉の意見書でも知名度の高い『和宮御降嫁に関する上申書』はこのときに天皇に提出された。しかし『岩倉公実記』によればこれは岩倉がいきなり天皇に提出した意見書ではなく、天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものであるという。上申書文内にも「奉蒙御諮問候」と記されており、上申書の内容も四老中連署で送られてきた書簡の内容をふまえたものになっているのでおそらく事実と思われる。岩倉は下級公家といえども侍従の官職にあり、さらに安政4年(1857年)12月には近習に任じられているから常に天皇の側に近侍していたはずであり、しかも先の八十八卿列参事件の件もあるから攘夷派の孝明天皇としては岩倉に好印象を持っていたであろうからありえない話ではない。
この上申書の中で岩倉は、今回の降嫁を幕府が持ち掛けてきたのは幕府の権威がすでに地に落ち、日に日に人心が離れていることに幕府自身が気づいており、ここで朝廷の威光を借りて幕府の権威もなんとか粉飾しようという狙いがある、と分析。外圧にさらされる皇国の危機を救うためには幕府に委任している政権を収復させて朝廷の下でもう一度人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わねばならないが、この収復は急いではならないとする。急げば内乱となり外国の思うつぼであるとする。そのため今は「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという公武体制を構築すべきであるとする。そして朝廷の決定事項として「条約の引き戻し」がある。したがって今回の縁組は幕府がそれを実行するならば特別に許すべきと結論する。
この岩倉の上申書が提出された正確な日時がわかっていないため、これが孝明天皇に影響を与えたのかはわからないが、いずれにしても天皇は6月20日に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条関白を通じて京都所司代に伝えた。