山本氏は源満政を祖とする清和源氏の一流である。戦国時代には三河の小豪族として成長したが[8]、桶狭間の合戦後に徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、永禄8年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し、その後そのまま牧野家の家臣となった。元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿(上席家老職を世襲する家)1100?1300石の家格に定着した[9]。
大政奉還後の越後長岡藩は、初め中立を模索したが新政府軍にこれが認められなかったため、奥羽越列藩同盟に加わって官軍と交戦した(戊辰戦争の北越戦争)が、近代化された兵力に勝る官軍に敗北。新政府から戦争責任を追及されると、藩主は新興の筆頭家老・河井継之助と譜代の上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し恭順した。
河井は敗走中に病死してすでに亡く、山本は捕われて処刑され、両家はともに家名断絶となる。しかし北越戦争の事実上の責任者は河井継之助で、彼が新興微禄の家老だったため、高禄譜代の上席家老だった山本帯刀がこれに添えられるかたちで犠牲にされたことは否めなかった。このため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがあった山本家の家名再興を使命として尽力することになる。
山本家は戸籍の上では明治17年(1884年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」とされたうえ、その女子も死亡すると廃家となった。
再興が実現したのは北越戦争から半世紀以上を経た大正4年(1915年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束されたときのことだった。牧野忠篤子爵はこの31歳になる高野五十六の将来を見込んで、彼が山本家を相続するかたちで家名を再興することを提案したのである。
高野家は元々信濃上田藩の家臣であったが、慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となった。その後延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をしたことを機に、以後代々高野家は山本家と深い関係を持つようになり、100?150石の大組(上級藩士)として郡奉行・勘定方支配・取次格などを務めるまでになった。北越戦争の敗戦で河井・山本の両家老家が廃絶となると、代わって戦後処理で活躍した。
人物像に関するもの
山本は博打が好きで、腕前もかなりのものだった(特にポーカーやブリッジに強かった)。山本曰く「博打は一ドルなら一ドル出して自分の言葉に責任をもつこと」「博打をしないような男はろくな者じゃない」。ちなみに山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったと伝えられるが、そのモナコではカジノ協会から出入り禁止令を受けている。真珠湾攻撃を投機的と心配した昭和天皇に対して永野が「山本は博打につようございますから」と釈明したという。山本の博打好きは、山本の親友であった今村均によっても戦後、証言されている。毎週末に山本、今村、安達二十三らのどれかの家でポーカーが開かれていたと今村は語っている。
大和を旗艦としていた頃、機関科の乗員に依頼して、軍用の小銃の実包を自分の猟銃に使用できるよう違法改造させた、というエピソードが伝わっている(辺見じゅん著『男たちの大和』に詳しいが、実際はその猟銃は彼のものではなく参謀長だった宇垣纏が使っていたものだという)。また、武蔵に旗艦を移した後、休憩時間に甲板上で幕僚らとビールを賭けて輪投げに興じ、彼が一番強かった、というエピソードが『戦艦武蔵』(吉村昭著)に紹介されている。
旗艦乗り組みの下士官兵の間では、艦内で出会った際に敬礼すると、ほとんど同時に正確な挙手の答礼を返してくる、と言われていた。
山本は逆立ちを得意としていた。逆立ちに関する逸話としては「アメリカ行きの船の中で催されたパーティーで、階段の手摺の上で逆立ちを披露した」「妙義山頂の岩の上や急流下りの舟の舳先などで逆立ちを行い、皆がハラハラする様を楽しんだ」といった話が伝えられている。
当時の海軍軍人の例に洩れず、山本も女性関係が派手だった(但し彼は玄人の女性を対象にしており、当時の倫理からは逸脱はしていなかった)。女性に対して細やかな気配りを見せ、得意の逆立ちで宴席の場を盛り上げる等、花柳界ではかなりの人気者だったらしい。その一方で山本は下戸であり、一説によると彼の徳利には番茶が入っていたという。
山本はナショナルジオグラフィック協会の会員でもあり、ナショナルジオグラフィックを購読していたらしい。
山本五十六の語録に見られる「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」や「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」の「男の修行」は格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。「やってみせて…」は上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされる。また「いまどきの若い者はとはばかるべきことは申すまじく候」と述べ、ステレオタイプの印象で若者を否定する年長者を諭す言葉も残している。
アメリカ着任時、日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市井で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談半分に答えたという。
他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いている。(この言葉は自らの故郷旧長岡藩の藩是)
ウィキクォートに ⇒山本五十六に関する引用句集があります。