等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。
とりわけ、太平洋艦隊司令長官チェスター?ニミッツは、い号作戦での前線視察の予定を詳細を暗号解読で知ったとき「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」と判断し、殺害計画を実行させたほどである[3]。
彼の教育者としての側面は現在でも高く評価され、彼の遺訓である「男の修行」は、警察予備隊、保安隊、そして自衛隊各教育隊の教育方針として引き継がれている。
山本自身主に軍政畑を歩いてきた人物であり、連合艦隊司令長官就任も采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に少なからず存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を当時の海軍大臣米内光政が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざける為に連合艦隊司令長官に任命するという避難的人事を行ったと云う事情もあり、実戦指揮能力の低さを批判するのは酷であるとする意見も少なくはない。実際、山本自身は連合艦隊司令長官に任官されることを拒み、吉田善吾海軍大将が海軍大臣に内定された際、吉田の下で日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望していたようで、米内海軍大臣に人事の撤回を強く要求している。
また戦後発見された山本から友人に宛てた手紙等により、開戦の際には米内を連合艦隊司令長官にした上で、自身は海軍中央へ戻り軍政面で米内を支え、日米開戦の火消し役をしようと考えていたらしく、自らの実戦指揮能力に疑問を抱いていたとも言われている。幕末長岡藩の河井継之助同様に勝機の少ない戦いに反対しながら戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官と位置づけられる由縁である。
山本が日米開戦前に連合艦隊司令長官ではなく、海軍大臣或いは海軍次官等の政治に意見を述べられる立場にいたのであるなら、その先見性と判断力をいかんなく発揮し、日米開戦を回避できたのではないかとする、山本五十六の軍政家としての能力を惜しむ意見も多い(例えば、秦郁彦なども戦略家としての山本には否定的であるが、軍政家としてはそれなりの評価をしている)。艦隊勤務の経験が浅かった故に、海戦術のドグマに捉われず航空機の有効性に気が付き、航空戦を重視する主張を行い得たとする意見もある。
一方、山本に対する否定的な意見としては下記の事項が中心となっている。
軍令部の作戦計画を退け、聯合艦隊主導の攻勢作戦を立案し実施した。
その補給の乏しい航空機を主体とする独断専行の攻勢作戦は国力の限界を超えるものであった[4]。
真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に見られる様にその作戦計画は、投機的な危険を伴う作戦であった。そして真珠湾では事前の準備から見事な戦果を上げたが、肝心の空母を撃ち漏らした。一方でミッドウェーでは、杜撰な作戦準備から大損害を出している(もっとも、山本長官をさしおいてミッドウェー作戦の許可が出された可能性がある[5] [6])が、共に投機的(のるかそるかの「博打」)でありすぎた。
麾下の各艦隊司令長官、戦隊司令官に対して適材人事改革を行なわず、賞罰において、(兵学校出身者のエリート集団の団結を重んじるがあまり)失敗した部下に対する責任を曖昧にした。これは後に作戦の分析・評価が機能しない土壌を生み出した[7]。
米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮とは言えない。
これらの理由により、平均点以下の「凡将」あるいは「愚将」であったとする辛辣な評価を下す意見もあるが、これに関しては、1948年の段階でサミュエル・モリソンが真珠湾攻撃を「愚手」と斬って捨てているように、比較的早くから出てきた見方でもある。
ただ山本五十六を米側のニミッツ長官などと比べると、空母部隊で旧態依然たる艦隊運用を行った事、戦艦対戦艦を「ぜいたくな戦い方」と言っていた事、マレー沖海戦で「プリンス・オブ・ウェールズは無理(沈まない)だろう」と言った事などから、海軍の航空主兵や航空機の運用を真に理解していたかには疑問を呈する向きはある。また、潜水艦を連合艦隊の作戦下に置いたことはあきらかな失敗であった。
山本氏は源満政を祖とする清和源氏の一流である。戦国時代には三河の小豪族として成長したが[8]、桶狭間の合戦後に徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、永禄8年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し、その後そのまま牧野家の家臣となった。元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿(上席家老職を世襲する家)1100?1300石の家格に定着した[9]。
大政奉還後の越後長岡藩は、初め中立を模索したが新政府軍にこれが認められなかったため、奥羽越列藩同盟に加わって官軍と交戦した(戊辰戦争の北越戦争)が、近代化された兵力に勝る官軍に敗北。新政府から戦争責任を追及されると、藩主は新興の筆頭家老・河井継之助と譜代の上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し恭順した。
河井は敗走中に病死してすでに亡く、山本は捕われて処刑され、両家はともに家名断絶となる。しかし北越戦争の事実上の責任者は河井継之助で、彼が新興微禄の家老だったため、高禄譜代の上席家老だった山本帯刀がこれに添えられるかたちで犠牲にされたことは否めなかった。このため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがあった山本家の家名再興を使命として尽力することになる。
山本家は戸籍の上では明治17年(1884年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」とされたうえ、その女子も死亡すると廃家となった。
再興が実現したのは北越戦争から半世紀以上を経た大正4年(1915年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束されたときのことだった。