山一證券
★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


行平次雄 - バブル崩壊と損失処理の先送り

行平次雄は横田良男と同様に旧満州国の生まれで、旧制中学在学中に終戦、帰国した後、一橋大学法学部を卒業して1955年山一に入社した。

行平が社長に就任した当時、植谷はようやく影響力が低下しはじめ、横田も会長ではあったものの健康問題等から発言力が低下していた。そのため行平は社長就任当初から山一の実権を握っており、会長になってからの期間を含めて9年間事実上の政権を保持した「山一最後のドン」であった。しかし、その間幾度となく訪れた「チャンス」を一つとして活かすことなく、最終的に山一を破綻に導いた。

バブルの波に乗った山一は、横田から行平に社長が替わる前後、1987年から1990年にかけて毎年1,000億円以上の経常利益を上げていた。しかし、他社もそれ以上の業績を上げていたため、四社シェアは低下の一途をたどっていた。

ここでバブルがはじけた。1989年5月からの数回にわたる公定歩合引き上げにより、高騰していた株価は1989年12月の最高値を最後に暴落を重ねるようになった。また、1989年11月には大和證券の損失補填問題が発覚した。当時は事後の損失補填は違法ではなかったものの、新聞・雑誌をはじめとするマスコミにより「大口顧客だけを優遇する、許し難い行為」として報道されるようになった。

バブル崩壊により、「永田ファンド」=営業特金は多額の損失を抱えることとなった。その処理方法として、大きく分けて以下の3通りが考えられた。
顧客先企業(名義企業)に損を含めて引き取らせる。

顧客先企業にファンド自体は引き取ってもらい、そのために損失の全部または一部を何らかの形で補填する。補填は、当初はおおっぴらに、損失補填の禁止後は相手先企業に訴訟を起こしてもらって裁判所主導の和解の形で行われた。

上記2つのどちらも行わず、ひたすら引き延ばして株価の上昇により含み損が解消されるのを待つ。もし引き延ばしの最中に表面化しそうになった場合も簿外で処理して表面化させない。

証券会社各社とも、客先との力関係や担当者の「ニギリ」状況に応じて上記のすべてを行ったが、全般的には野村は1.を中心に、大和・日興は2.を中心に特金を解消していった。山一だけが3.の道を選択した。

以下が、バブル崩壊前、ならびに会長となった後も含めて、行平が逃したと言われる6回の「チャンス」である。

行平社長時代

1988年11月:大蔵省によってインサイダー取引規制強化が行われ、法人営業担当と運用担当の分離が指導された。山一でもこの2つを別部署に分けたが、実態としては引き続き営業担当が運用も行うことを認め、「永田ファンド」が生き延びることとなった。

1989年12月:大蔵省から営業特金=「永田ファンド」解消を命じる通達が出た。これを受けて他社は損を引き取らせるか引き取るかして特金を解消していったが、山一はズルズルと先送りを繰り返した。

1991年10月:証券取引法が改正され、一任勘定と損失補填が禁止されることになった。この時が最大のチャンスであった。1990年初頭からの株価の暴落で含み損を抱えた多くの「永田ファンド」に関して、「損失を表面化するわけにはいかない」という顧客企業の求めに応じて「飛ばし」が行われるようになっていた。飛ばしとは、決算期を迎える企業が抱える損を含んだ有価証券を決算期が違う企業に一時的に「疎開」させることで、その際には当然ながら飛ばし先の企業の決算期には売却価格+αで買い戻す条件をつけていた。つまり、損失補填を事前に保証していたわけで、1991年10月の証券取引法改正はこういった飛ばしを明確に禁止するものであった。これを口実に顧客に損を引き取らせることも可能で、実際に野村を中心とする他社ではそうしたが、山一ではそれができなかった。飛ばしを続けることによってどこが起点であったかわからなくなったもの(山一社内では「宇宙遊泳」と呼んだ)が数多くあったことも理由の一つである。
最終的に、東急百貨店(決算期が7月だったため、山一以外にも多くの証券会社から飛ばし先として利用されていた)など7社の名義で合計1千億円以上の巨額の損失を抱えた「永田ファンド」が残った。これを、副社長であった延命隆が中心となって、山一の子会社として設立した5社のペーパーカンパニーに引き取ることとした。ペーパーカンパニーがファンドを買い取る資金は山一から提供されたが、延命を中心とする班が信託契約など複雑なスキームを使って簿外で処理した。こうして、それまでは曲がりなりにも社外に存在していた損失を、簿外債務=簿外損失として社内に抱え込むこととなった。

行平会長・三木社長時代

1993年6月:三木は大蔵省の小川是証券局長から、「四大証券とか、総合証券の枠にとらわれず、再建の計画を策定して9月末までに報告してください」という叱責に近い指導を受けた。この時点で小川は簿外損失の存在を知らなかったが、それでも山一は経営危機であると認識せざるを得ない状況となっていたのである。これを受けて山一では経営再建計画を作成したが、その中で「簿外損失を表面化し、処理しないと意味がない」という議論が一部の簿外損失を知っていた役員から出た。しかし、三木・行平は最終的に簿外損失を隠したままの再建計画を作り、12月に大蔵省に提出した。

1995年7月:1995年3月期決算で、簿外損失を抜きにして経常赤字506億円という過去最悪の数字を記録したことを受けて、常務以上の役員全員に簿外損失を含めた経営状況すべてを開示し、今後の経営再建計画を話し合う役員合宿が計画された。しかし、「公開するとつまらぬ噂になるだけだ」という三木の反対で流れた。

1996年10月:証券会社各社が大蔵省の指導により系列ノンバンクの救済に乗り出していた。山一もバブル崩壊で不良債権を抱えていた「山一ファイナンス」に対して1,500億円の支援を検討していたが、一部役員から「この1,500億円は山一ファイナンス救済より、本体の簿外損失の処理に使うべきだ」という異論が出た。しかし、四社の横並びを重視する三木・行平の判断により、山一ファイナンスの救済は行われ、簿外損失はそのままとなった。

行平自身がこれらの「不作為の判断」をした理由には、次のようなものがあったと考えられる。まず、1965年の危機の際にも、あと半年我慢すればいざなぎ景気が始まり、後から見れば日銀特融などなくても再建は可能だったように見えた。今回発生したファンドの含み損も、引き延ばしていればそのうち株価が上がって何とかなるだろうという強い思いこみを持っていた。また、正面から特金問題の処理に取り組むのは、せっかく上り詰めた社長・会長のイスを失うことにつながるという判断。大和証券の場合、損失補填を発表すると同時に経営陣の更迭を発表した。その後のマスコミ報道の動向を見ても、経営陣更迭なくして特金の正面からの処理はあり得ない状況となっていた。さらに、「法人の山一」の金看板も昔の話となり、野村證券のように強硬に客先に損を引き取らせるだけの力関係や交渉力がなくなっていた。

1992年6月、行平は健康問題(胃潰瘍の手術をしたばかりであり、また、食道ガンの手術を受ける予定もあった)を理由に三木に社長を譲った。


三木淳夫 - 損失の拡大と危機の深刻化

三木淳夫は1960年に東京大学法学部を卒業して山一證券に入社した。入社後は、投資信託本部、金融法人部、企画室と、5年先輩の行平と全く同じ経歴をたどって出世した。

三木が社長に就任した後も、事実上の決裁権限はすべて会長の行平が握っていた。普通の会社なら新社長が就任するとその同期や先輩は関係会社に転出するなどして本社から出されるが、山一では1997年の破綻直前まで三木の同期・先輩が5人(副社長4人、専務1人)も経営陣に残っていた。当然ながら三木がこの経営陣に対して指導力を発揮することはなく、社内外から「仲良しクラブ」と揶揄された。こうした状況の中、三木が社長に就任してからも3回あった簿外損失を処理するチャンス(上述)にも、決断することなく時は流れた。三木の不作為には、行平と同じ3つの理由にプラスして、最も大きい理由として「行平が処理しない判断をしているのに反対できない」ということがあったと思われる。もちろん、行平が三木のそのような従順さを見込んで登用したということではあるが、三木自身にもあまりにも社長としての責任に対する自覚がなかった。後に衆議院予算委員会の参考人として招致された際に、三木は副社長時代の様子として「(損失隠しは)行平さんと担当の延命副社長のところで決まっていた。そこで決まるとあえて異を唱えるには勇気がいります」と述べているが、このようなメンタリティーを持った「社長」をこの重要な時期に戴いてしまったところにも山一の不幸はあった。

そして、1997年を迎えた。この年、山一證券は、本社ビル移転(現:茅場町タワー)、全社員へのパソコン配備、事務職女性社員の新制服支給、『山一證券百年史』の刊行という4つの記念事業を行い、創業百周年を祝うはずであった。


■毎日更新無料動画!
■未公開流出画像満載

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki