「中島飛行機」は、民間機の開発も行ったが、主として太平洋戦争までの陸海軍用機の需要に応え、軍用機およびそのエンジン開発に取り組んだメーカーである。特に1937年に勃発した日中戦争以降、終戦までに陸軍九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」、四式戦闘機「疾風(はやて)」[1]、海軍艦上偵察機「彩雲」[2]など多数の著名な軍用機を送り出した。エンジンメーカーとしては、「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された1000馬力級の「榮」エンジン、大戦後期の「疾風」や局地戦闘機「紫電改」に搭載された「誉」エンジンなどの航空機用発動機を開発。三菱重工業、川崎航空機と並び、航空機製造会社として日本最大規模の存在であった。
日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに「富士産業[3]」と改称された。戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ優秀な技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などを作って糊口を凌ぐ日々へと一変した。
このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、当時進駐軍の兵士たちが移動に利用していたアメリカ製の簡易なスクーター「パウエル」に着目する。軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年に「ラビットスクーター」として発売した。「ラビット」は運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、メーカーの屋台骨を支える重要な商品となった。「ラビット」シリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年まで生産された。
また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年からバスボディ架装にも進出、特に従前の「ボンネットバス」より床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得た。さらに1949年にはアメリカ製リアエンジンバスに倣い、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成。フロントエンジン型キャブオーバーバスより更にスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流は続々とリアエンジンへ移行していく。
このようにして平和産業へ転進した富士産業であったが、1950年8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまった。
1950年6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させた。1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発行すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還がはじまり、富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印した。
同じ頃、1953年の保安庁(現:防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、アメリカ・「ビーチ・エアクラフト・T-34 メンター」の製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出した。当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速。1953年5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社「富士重工業株式会社」が発足[4]。
1954年9月、6社が合併契約書に調印。1955年4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に「富士重工業株式会社」としてスタートした(当時の資本金:8億3050万円、従業員:5643名)
旧・中島飛行機の発動機開発の拠点だった荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年には、すでにタイヤメーカーのブリヂストンの会長でもある石橋正二郎個人が筆頭株主の会社(ブリヂストンの資本系列とはなっていないが銀行は事実上のブリヂストン支配の会社と認定していた)になっており、メインバンクの違いから再合同には参加しなかった。[5]。
また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業(現:マキタ沼津)など3社も、のちに富士重工業の関連会社として加わっている。
富士重工は、1966年に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである。[6]
レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。オイルショックや排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。