1951年『近代文学』2月号において、安部の短編「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が発表された。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発されて生まれた作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が含まれていた。「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞を、石川利光の「春の草」(『文學界』)と同時受賞した。選考会の席上で、「壁」は選考委員の宇野浩二から酷評されたものの、同じく選考委員の川端康成および滝井孝作の強い推挙が受賞の決め手となった。同年5月に、「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は、「S・カルマ氏の犯罪」と改題の上、短編「バベルの塔の狸」および短編集「赤い繭」と共に、石川淳の序文を添えて、安部の最初の短編集『壁』として出版された。
1950年代には前衛芸術の立場に関心をもち、野間宏とともに『人民文学』に参加する。その流れで、『人民文学』が『新日本文学』と合流してからは新日本文学会に所属し、日本共産党に所属していた時期もあった。しかし1961年に、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。
1973年に自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛、仲代達矢、丸山善司、宮沢譲治、山口果林の十二名。安部公房スタジオは堤清二のバックアップにより日本では主に渋谷西武劇場で、海外公演もそれぞれ積極的に行ない、1979年のアメリカ公演での上演作品「仔象は死んだ」はその斬新な演劇手法が反響を呼び、以後各国の演劇界に影響を与えたが、日本では思うような評価が得られず、1980年代に活動を休止してしまう。
安部はドイツの思想家エリアス・カネッティを、彼がノーベル文学賞を受けた1981年前後から注目していたが、同じ頃に親友であるドナルド・キーンの薦めでコロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスを読み、その作品に衝撃を受ける。以後、安部は自著やテレビなどで盛んにカネッティやマルケスを紹介し、かれらの作品を一般の読者に広める功績を残した。
1992年12月25日深夜に脳内出血で倒れ、退院後も自宅療養を続けるが、1993年1月20日から症状が悪化し、1月22日早朝に急性心不全により死去。68歳。死後、『飛ぶ男』などの遺作が、ワープロのフロッピーディスクから発見されるという、当時としては珍しい遺作の発見のされ方が話題となった。
大江健三郎は、安部公房をカフカやフォークナーと並ぶ世界最大の作家と位置づけており、安部がもっと長生きしていれば、ノーベル文学賞を受賞したであろうと言う事を述べている。
日本人で初めてワープロで小説を執筆した作家である(1984年から使用)。使っていたワープロはNECの『NWP-10N』と『文豪』であった。またピンク・フロイドの大ファンであり、まだ普及する以前にシンセサイザーを購入して使用していたなど意外な一面を持っていた(その当時シンセサイザーを所有していたのは冨田勲、NHK(電子音楽スタジオ)、そして安部の3人のみだったが、職業的な面以外で使用していたのは安部のみである)。NHKで放送されたインタビュー番組では、所有機で自身の演劇作品のためにみずから製作した効果音等を公開している。また、安部はクラシックの作曲家ではバルトークを好んでいた。喫煙家。
趣味の領域を越えた写真マニアとしても知られ、彼ならではのインテリジェンスに満ちた作品を多く残している。現在、それらの一部は現行版の安部公房全集(新潮社)の箱裏と見返しに見ることができる。愛機はコンタックスで、安部が好きな写真のモチーフはごみ捨て場など。
1986年に、ジャッキを使わずに巻ける簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」を発明。第10回国際発明家エキスポ86で銀賞を受賞した。
略歴
1948年 - 処女小説『終わりし道の標べに』を刊行
1950年 -「赤い繭」で戦後文学賞を受賞
1951年 -「壁 - S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞
1958年 - 戯曲『幽霊はここにいる』で岸田演劇賞受賞
1963年 -『砂の女』で、読売文学賞を受賞
1967年 - 戯曲『友達』で谷崎潤一郎賞を受賞
1968年 -『砂の女』でフランスの最優秀外国文学賞を受賞
1973年 - 演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、主宰
1974年 - 戯曲『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞
1975年 - 5月13日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士の称号を受ける
1977年 - アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に推される
1986年 - 簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」により「第10回国際発明家エキスポ86」で銀賞を受賞
1992年 - 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし入院
1993年 - 1月22日、急性心不全のため、死去、68歳