文政2年(1819年)11月25日、安藤信由の嫡男として磐城平藩江戸藩邸で生まれる。幼名は欽之進、後に欽之介。
弘化4年(1847年)に父の死により家督を継ぎ、万延元年(1860年)には老中となる。直後の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、同じく老中の久世広周と共に幕政を事実上取り仕切る最高権力者となった。
信正は安政の大獄を起こした井伊直弼の強硬路線を否定し、文久2年(1862年)には直弼の後を継いだ井伊直憲に亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させているが、信正は穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えていた。その一つが、孝明天皇の妹・和宮と第14代将軍・徳川家茂を結婚させるという公武合体の実現であった。
また、この頃になると日本国内では政情不安からアメリカ公使館通訳であったヘンリー・ヒュースケン殺害事件などの問題が起こっていたが、当時はアメリカが南北戦争で日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれを処理することに成功した。また、諸外国と条約を結んだことから問題となっていた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行うなど、幕末の政局安定化に努めた。
文久2年(1862年)1月15日、和宮降嫁問題によって恨みを抱いていた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、負傷したが一命は取り止めている(坂下門外の変)。しかもその直後、包帯姿でイギリスの公使・ラザフォード・オールコックと会見している。このとき、オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を見せる信正の姿に感嘆したという。
しかし、一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けない」と非難の声が上がる。そのうえ、女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれて、老中を罷免され、溜間詰格への敬遠を余儀なくされた。その後、隠居・謹慎を命じられ所領のうち2万石を減封された。後は長男・信民が継いだ。
背中に傷を受けたことはともかく、女性問題やハリスとの収賄問題は、信正の功績を妬んだ派閥による讒訴の疑いが高い。だが、信正の老中としての幕末における功績は高く評価されており、有能な老中であったと言えるであろう。
慶応4年(1868年)に明治新政府が立ち上がると、若年の藩主・安藤信勇に代わって本領での藩政を指揮。奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。その後、明治2年(1869年)9月10日に永蟄居の処分が解かれた。
明治4年(1871年)10月8日、死去。享年52(満51歳没)。法名:謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士。墓所:福島県いわき市平古鍛冶町の川嶋山楢騎士院良善寺。
※日付=旧暦
文政2年(1819年)12月28日 - 元服し、信睦と名乗る。
天保6年(1835年)12月16日 - 従五位下伊勢守に叙任。
天保14年(1843年)閏9月 - 長門守に遷任。
弘化4年(1847年)
5月5日 - 家督相続し、陸奥国磐城平藩主(5万石)となる。
8月1日 - 江戸城の雁の間詰となる。
弘化5年(1848年)1月23日 - 奏者番に補任。
嘉永4年(1851年)
6月9日 - 寺社奉行兼担(見習)。
12月21日 - 寺社奉行(本役)。
安政5年(1858年)8月1日 - 若年寄。
安政6年(1859年)
7月21日 - 勝手掛兼務。
8月28日 - 常陸国水戸藩御用向取扱兼務。
万延元年(1860年)
1月15日 - 老中に補任。外国御用取扱を兼務。
閏3月20日 - 従四位下に昇叙。
6月24日 - 侍従兼務。
10月24日 - 信行と名を改める。
12月21日12月21日 - 勝手入用掛を兼務。
文久元年(1861年)3月21日 - 外国御用取扱の功により1万石加増。
文久2年(1862年)
1月15日 - 坂下門外の変で負傷。
3月26日 - 名を信正に改める。