織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(桃山)から、このように呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。そのため、歴史的経緯を尊重するなら“伏見時代”の方が適切な呼称となるが、そもそも、安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(木幡山)も完成から2年後に秀吉が死去するなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張もある。そのため、近年は織豊時代という呼び方も広まっており、安土大坂時代、または天正時代の呼称を提案する人もいる。
安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。始期は織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)が有力であるが、義昭が京都から放逐された元亀4年(1573年)、安土城の築城が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。何れにしても、「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、室町時代、戦国時代と重複してしまうことが、その定義付けを複雑化させている。
戦国大名の中で織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長による政権の運営が始まることになった。元亀4年(1573年)に足利義昭を京から放逐すると、室町幕府は事実上崩壊し、名実共に織田政権が確立する。さらに、天正4年(1576年)に安土城の築城が始まり天下布武への流れが現実のものになりつつあることを世に知らしめる。こうした中、信長の支配により平和を取り戻した京を中心に新たな文化が花開いていった。信長はその後も勢力を拡大し日本中央部を制圧するに至るが、天下統一の目前と思われた天正10年(1582年)に本能寺の変によって自害した。
織田政権を参照
本能寺の変に対し羽柴秀吉は逸早く京に駆け付け首謀者である明智光秀を破った(山崎の戦い)。これにより織田政権内での主導権を掌握した秀吉は清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固め、天正11年1583年には大坂城の築城を開始する。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本を統一し全国で検地と刀狩りを実施させ政権の安定に力を注いだ。また、文禄1年(1592年)秀吉は明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こしたが、経由地であるはずの朝鮮で戦況が膠着化してしまう。一方、国内は天下統一による平和がもたらされたことなどから、諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。こうしたことに加え、南蛮貿易による異文化との接触や朝鮮陶法の伝播などにより、文化は新たな時代を迎え“桃山文化”と呼ばれることになった。
豊臣政権を参照
慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、五大老の筆頭である徳川家康が頭角を現し朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し石田三成を中心とした反家康勢力が反発し慶長5年(1600年)に全国を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。これにより安土桃山時代は完全に終わりを告げ未曾有の太平、江戸時代が始まった。
江戸幕府を参照
年表
織田信長、足利義昭を奉じ、上洛(永禄11年・1568)
室町幕府滅亡(元亀4年・1573)
長篠の戦い(天正3年・1575)
織田信長、安土城を築く(天正4年・1576)
織田信長、顕如を降伏させ、石山本願寺との対決を終わらせる(石山合戦(1570?1580))
本能寺の変(天正9年・1582)→山崎の戦い:明智光秀の謀反も俗に言う三日天下で終わる。
清洲会議(天正9年・1582)→賤ヶ岳の戦い(天正10年・1583):織田信長の後継争いで、筆頭家老であった柴田勝家と羽柴秀吉が反目。羽柴秀吉が勝ち、敗れた柴田勝家が自害。
羽柴秀吉、石山本願寺跡地に大坂城築城(天正10年・1583)
小牧・長久手の戦い(天正11年・1584):羽柴秀吉と織田信雄、徳川家康との戦い→和睦
羽柴秀吉、藤原氏を称し関白に就任。(天正13年・1585)、同年四国平定
羽柴秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を賜る(天正14年・1586)