2007年末にマスコミからのインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」[39]と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」[39]と答えている。
2008年以降は政治活動を徐々に本格化させ、中国国務委員の唐家?と会談するなど外交への取り組みも再開した。同年1月、参院選時の公約への根強い批判に反論し、年金記録の照合作業を2008年3月までに終わらせると公約したが国民一人一人への支払いを保証したわけではない、と主張した[40]。また、本来は国民各自が責任を持って年金記録を管理すべきと指摘し、政府に頼る風潮に疑問を呈した[40]。
2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や世耕弘成らが入会した[41]。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」[42]と語り、同懇話会の座長に就任した。
3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」[43]と述べて所属議員に謝罪した。この総会にて安倍の派閥への復帰が承認され、清和政策研究会相談役に就任した。4月28日に「主権回復五十六周年記念国民集会」でスピーチ、4月30日には「中国の人権状況を考えるシンポジウム」に参加した。
2008年8月15日、首相在任中にはなせなかった終戦記念日の朝に靖国神社に参拝した。
略歴
1954年9月21日:東京都に生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)。
1977年3月:成蹊大学法学部政治学科卒業
1977年4月:米国カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に入学。その後、ロングビーチの語学学校に転校した。
1978年4月:南カリフォルニア大学に入学。政治学を専攻し春・夏・秋学期を履修し、1979年に中退。
1979年4月:株式会社神戸製鋼所入社
1982年11月:神戸製鋼所退社、外務大臣(安倍晋太郎)秘書官に就任
1993年7月:衆議院議員初当選(旧・山口1区)
1993年7月:衆議院議員初当選
1999年10月:衆議院厚生委員会理事
2000年7月:第2次森改造内閣で内閣官房副長官に就任
2001年4月:引き続き第1次小泉内閣で内閣官房副長官に就任
2003年9月:自由民主党幹事長に就任
2004年9月:自由民主党幹事長代理に就任 党改革推進本部長に就任
2005年10月:第3次小泉改造内閣で内閣官房長官に就任
2006年9月:自由民主党総裁に選出、第90代内閣総理大臣に就任
2007年9月:自由民主党総裁及び内閣総理大臣を辞職
2007年9月:安倍内閣総辞職
主な所属議員連盟
日韓議員連盟
日本会議国会議員懇談会
日本の前途と歴史教育を考える議員の会
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国家像
美しい国
美しい国も参照総裁戦直前の2006年7月19日に自らの政治信条を綴った自書『美しい国へ』を出版し、10刷・51万部以上を発行する[44]ベストセラーになった。政権スローガンも「美しい国日本を作る」とし、自身の政権を「美しい国づくり内閣」と命名した。自身の政権の立場を“「戦後レジーム(体制)」からの新たな船出”と位置づけている。現行憲法を頂点とした行政システムや教育、経済、安全保障などの枠組みが時代の変化についていけなくなったとし、それらを大胆に見直すとしている。