その後、入院していた慶應義塾大学病院から「一時帰宅」し、東京・富ケ谷にある私邸での自宅療養に入った[34][35]。
11月13日に新テロ特措法案の採決を行なう衆議院本会議には「はってでも出たい」と出席し、白票を投じた。後の記者会見において安倍前首相は「回復しました」と元気な様子を見せた。また、同採決を地方出張のため棄権した民主党代表小沢一郎に対して、みずからの政権放り出しを棚にあげ「無責任じゃないですか。本当は(小沢は)賛成だったんじゃないかという人もいますがね。」と強く批判した。
2008年1月、『文藝春秋』に手記を寄稿。2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主たる原因は健康問題だったとしている[36]。
2008年には第169回国会会期中に妻の昭恵とスキー旅行[37]や選抜高等学校野球大会の観戦[38]に出かけるなどしている。
2007年末にマスコミからのインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」[39]と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」[39]と答えている。
2008年以降は政治活動を徐々に本格化させ、中国国務委員の唐家?と会談するなど外交への取り組みも再開した。同年1月、参院選時の公約への根強い批判に反論し、年金記録の照合作業を2008年3月までに終わらせると公約したが国民一人一人への支払いを保証したわけではない、と主張した[40]。また、本来は国民各自が責任を持って年金記録を管理すべきと指摘し、政府に頼る風潮に疑問を呈した[40]。
2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や世耕弘成らが入会した[41]。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」[42]と語り、同懇話会の座長に就任した。
3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」[43]と述べて所属議員に謝罪した。この総会にて安倍の派閥への復帰が承認され、清和政策研究会相談役に就任した。4月28日に「主権回復五十六周年記念国民集会」でスピーチ、4月30日には「中国の人権状況を考えるシンポジウム」に参加した。
2008年8月15日、首相在任中にはなせなかった終戦記念日の朝に靖国神社に参拝した。
略歴
1954年9月21日:東京都に生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)。
1977年3月:成蹊大学法学部政治学科卒業
1977年4月:米国カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に入学。その後、ロングビーチの語学学校に転校した。
1978年4月:南カリフォルニア大学に入学。政治学を専攻し春・夏・秋学期を履修し、1979年に中退。
1979年4月:株式会社神戸製鋼所入社
1982年11月:神戸製鋼所退社、外務大臣(安倍晋太郎)秘書官に就任
1993年7月:衆議院議員初当選(旧・山口1区)
1993年7月:衆議院議員初当選
1999年10月:衆議院厚生委員会理事
2000年7月:第2次森改造内閣で内閣官房副長官に就任
2001年4月:引き続き第1次小泉内閣で内閣官房副長官に就任
2003年9月:自由民主党幹事長に就任
2004年9月:自由民主党幹事長代理に就任 党改革推進本部長に就任
2005年10月:第3次小泉改造内閣で内閣官房長官に就任
2006年9月:自由民主党総裁に選出、第90代内閣総理大臣に就任
2007年9月:自由民主党総裁及び内閣総理大臣を辞職