光孝天皇の第七皇子。母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・皇太后班子女王。
一度臣籍降下し、源氏の姓を賜って源定省を称したが、後に実力者の関白藤原基経の後押しで887年(仁和3年)8月25日に皇族に復帰し、翌8月26日に皇太子に立てられる。これには宇多天皇が基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子であったことが大きい。同日に光孝天皇が病没したため践祚し、11月17日に即位した。
第一皇子敦仁親王(のちの醍醐天皇)は、女御(贈皇太后)藤原胤子の子。藤原胤子は内大臣藤原高藤女で、宇多天皇が若い時からの妻の一人。
藤原胤子の他、女御は藤原温子、橘義子、菅原衍子、橘房子。藤原温子は基経の女で、宇多帝即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王を猶子とし、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮に住んだため、東七条后、七条后とも称される。橘義子からは斉世親王があり、菅原道真女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が出た。菅原衍子は菅原道真の女。
皇子皇女多数。宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍に降下した。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、藤原胤子の子・敦実親王から出た系列が最も栄えた。 敦実親王の子・源雅信は左大臣を務め、その女・倫子は藤原道長の正室となり、一条天皇中宮彰子や関白頼通の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の綾小路家などがあり、また雅信から近江に土着した佐々木氏が出ている。
(54)仁明天皇 (55)文徳天皇 (56)清和天皇 (57)陽成天皇 元良親王
惟喬親王 貞純親王 (源)経基〔清和源氏へ〕
(58)光孝天皇 (59)宇多天皇 (60)醍醐天皇
人康親王 操子女王
(藤原基経妻) 真寂法親王
(斉世親王)
敦実親王 (源)雅信〔宇多源氏へ〕
藤原時平と菅原道真を重用した(寛平の治)。888年(仁和4年)に造立された勅願寺が仁和寺。
その後、醍醐天皇に譲位し、仁和寺に入って法皇と称した。天皇の譲位については古くは仏道専心説が有力であったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためとする説、一旦臣下から皇族に復帰して即位したためにこれに不満を抱く他の皇族の皇位要求の動きに先んじた説などがある(後述の『大鏡』の陽成上皇の発言はその暗示ともされる)。また『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死による強い衝撃について書かれており、退位と結びつける見方もある。
一方、陽成上皇との関係は微妙であった。『大鏡』には、陽成上皇が宇多天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っているが、陽成上皇が復位を画策しているという風説は天皇を悩ませた。保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども天皇の許しなく内裏に入る事が禁じられたが、後に昌泰の変が起きた時に醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇がこの決まりを盾に阻まれたと記されている。
皇位継承者不在の危機にあたり、臣籍降下した者が即位した例であるが、当時在世中の貞保親王[1]らを超越しての即位であり、藤原淑子・基経による擁立劇という側面もある。即位直後におきた「阿衡事件」は、天皇を自らの傀儡にしたい基経と、若き天皇との主導権争いでもある。事件は天皇の譲歩に終わったものの、基経が想像するよりは英明な人物であったから、菅原道真を重用するなど、次第に「親政」色を強めてゆくことに成功した[2]。
『寛平御遺誡』、『宇多天皇御記』の著書を残す。晩年は病気がちの醍醐天皇に代わって、実際の政務を執っていたいう説もある。
「延喜天暦の治」と賞せられる醍醐天皇・村上天皇の「善政」とされるものの多くは宇多天皇(法皇)の政策の延長上に過ぎず「寛平の治」と呼ぶのが妥当ではないかという説もある。
譲位後に行った大掛かりな和歌の行事である「亭子院歌合」は、国風文化の盛行の流れを後押しするものである。
后妃・皇子女
女御(皇太夫人):藤原温子(872-907) - 藤原基経女
均子内親王(890-910) - 敦慶親王妃
女御(贈皇太后):藤原胤子(?-896) - 藤原高藤女
敦仁親王(醍醐天皇)(885-930)